【村上春樹、ドストエフスキー他】25冊レビュー

9月から仕事が本格化し、サイトの更新ができなくなりそうなので(さらに、仕事も増やして現在働いている状態)、ここらでなにか「まとめ的」なことをやろう、と思いまして、つきましては、この2ヶ月半(6/6~8月半ばのお盆まで)のあいだに読んだ本を、羅列し、感想を記します。

これから時間的束縛で、小説本が読めなくなる、という心配があります(読んでもビジネス本が中心になりますから)。美術鑑賞と同時に、文学書が読めなくなるのは、ぼくにとっては死活問題です。とにかく時間がある今、自分が読んでおきたい本を読みまくりました。なので、ほとんどが再読ということになっています。ぼくの場合は、だいたい10年に一回くらい、気に入った本を読み返すんです。

読書をすると、めちゃくちゃ感動、普通、つまらん、のだいたい3つに分れます。選んで、この3つですから、闇雲に選んだら、たぶん9割がつまらない読書体験となってしまうでしょう。なぜこの本を読んだのか? ということを書いておくことは、読まれる人のための本選びのひとつの参考になるかも、という気持ちもあります。

ただし、普通の読書レビューではありません。

ぼくは一応商業出版経験もある創作家で、自分の小説を創作する視点で本は読んでいます。いわゆる面白かった本のおすすめ、というものではありません。

とりあえず2000年以降の村上春樹の全小説を読み返しました。これで1ヶ月くらいはかかってしまいました。後にドストエフスキーをはじめとするお気に入りの海外小説を読みました。

興味を持たれた作品がもしあれば、ご一読ください。

もくじ

村上春樹

『神の子どもたちはみな踊る』 新潮社 2000

「前期村上春樹」「後期村上春樹」のちょうど境界線にあたる作品集。村上春樹は、この作品から明らかに変わった。

ぼくはこの短篇集が大好きで、とりわけ最初の2編「UFOが釧路に降りる」「アイロンのある風景」は傑作ですし、最後に配置されている「蜂蜜パイ」は、これは村上春樹では非常に珍しい作品で、彼はここで臆面もなく自己の顔を曝け出しているんですね。

作家は技巧に走る場合もあれば、思わずその顔を覗かせるときもあって、この瞬間を見るときも、またアーティストの作品を鑑賞する楽しみのひとつですね。ぼくはそれを「伝家の宝刀を抜く」と表現しているんですけど。「蜂蜜パイ」は刀を抜いてる。

『海辺のカフカ』全2冊 新潮社 2002

惜しい。構成的に破綻している。後は、ほぼ完ぺきな作品。後半の文章は、奇跡的。本当に、本当に素晴らしい。20年ぶり近くに再読したわけですけど、ぼくがいいたのは、なぜ、編集者はこの作品について注意しなかったのか? ということに尽きる。ぼくレベルでわかるんだから、プロの編集者なら、この小説の決定的な傷について把握していたはず。なぜ、いわなかった? なぜだ? すでに村上春樹ではなく、ハルキ・ムラカミになった彼には、誰も注意することなんてできないのか…?

この小説が傑作になっていれば、彼のその後の人生は大きく違っていたかもしれないですね。しかし、これも文壇と依存関係にある村上春樹自身のせいだ、といえば、それまでのこと。もともと彼は人のいうこと聞かない人ですけども。

『東京奇譚集』 新潮社 2005

『パン屋再襲撃』を上回る村上春樹の経歴上最高峰に位置する傑作短篇集。駄作が一作もない。1作ごとにレベルが上がっていく作品集は珍しい。彼が大長編を書く作家であるのと同時に、短編でも傑出した作家であることがここで証明された。

『1Q84』全3冊 新潮社 2009-2010

村上春樹作品の頂点に位置する作品…になるはずだったこの作品。未完に終わっています。そもそも最初は2冊刊行で、そのときに読んだんですけどね。その後翌年にBOOK3が刊行されて、これはおみごと、と舌を巻きました。執筆は大変苦労されたみたいで、やっぱり、そうなんだ、と。

謎が放りっぱなしにされた内容ですが、これを回収する必要があるでしょう。もともと村上春樹という作家は、パロディ作家です。この『1Q84』という小説において、「脱近代」から先祖返りをして、モダニズムなどという時代などなかったかのような小説を描いています。この小説を、つまらない、という人は、20世紀の小説しか読んでいないのかもしれませんね。この小説はいいですよ。

続編を書いてほしいので、お願いします。

『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』 文芸春秋 2013

村上春樹作品で、史上最悪の駄作。最初読んだときは、普通、という感じだったんですけど、あかんでしょ、これわ…。過去のテクニックを踏襲していることは、問題はないですけれど、この作品にはなにも描かれていない。ギミックに空白を作り出す春樹ワールドは、ここにおいて単に本当の空白になってしまった…。ただ、ぎりぎりこの作品には、「ハルキ印」が貼ってあることだけが理解できる。そして、その後の『騎士団長殺し』において、彼は作家性をまったく放棄するに至る…。

『女のいない男たち』 文芸春秋 2014

これ、読んでないんじゃないかな、と思って買っちゃったんですけど、読んでましたね。どこ、やったんだろう。

短篇は相変わらず上手いですね。「木野」などは、カポーティの「無頭の鷹」を思わせる作品。新境地に挑んでいるのがわかります。最初の2作品、たとえば「ドライヴ・マイ・カー」などは、典型的によくできた短篇作品で、もし、『1Q84』の続編を描く気持ちがないのなら、これからは短編作家に徹して欲しい、と村上春樹氏に対しては、これまで彼の全作品を繰り返し繰り返し読んできた読者としては、そう思う次第でした。

『騎士団長殺し』全2冊 新潮社 2017

期待しただけに、愕然とした作品。とてもよくできているから、なおさら感が強い。中身がまったくもってなにもない。さして面白いわけでもない。村上春樹という作者名をとってしまっても、全然問題がない。村上春樹はここに完全に消滅したのか? 長編を作る際のテーマが見いだせないのが原因か? 画家が主人公なんだから、せめて最低限の美術の知識は入れて書いて欲しかった。この画家は小説家にしか見えませんよ。とにかく『1Q84』の続編に着手すべきです。こんな小説を書いている場合ではないんです!

フョードル・ドストエフスキー

『悪霊』全2冊 新潮文庫

晩年のドストエフスキーがものにした5大長編のど真ん中にあたる画期的な作品。最も驚かされるのが、主要人物だけでも30人くらいは登場するんですが、読み終わったあと、一人残らず余分だと思えた人物がいない、というそのこと。

ぼくが『悪霊』で最も学んだことは、この点です。ドストエフスキーの描く人物たちがなぜこれほどまでに魅力的なのか? というと、彼らが皆「実存的人間」だからです。故、彼らは物語の中でそれぞれ繋がってはいるんですが、心の交感はないんですね。つまり、誰もがそれぞれの思想で錯綜し合っている。

つまり、バフチンがいうところのドストエフスキー文学の最大の魅力である「祝祭」「カーニバル」の特性が、最も表れている作品でもあり、場面的にも圧巻なシーンもあるのが、この『悪霊』です。

ぼくはドストエフスキー作品では、もちろん『カラマーゾフの兄弟』とこの『悪霊』の二作品が、とにかく好きです。

個人的なことを書きます。この作品をぼくが読んだのは、大学受験のときに予備校に通っていたときに、英語の先生が勧めてくれたからです。その英語の先生の愛読書だったのが、このドストエフスキーの『悪霊』だったんです。いつも先生の鞄には、ボロボロになった新潮文庫のこの『悪霊』が入っていました。先生はこてんぱんに村上龍氏と村上春樹氏を批判していましたが笑 イギリスのパンクバンドであるザ・クラッシュの来日公演を見た、といっていて、ぼくがジョイ・ディヴィジョン・フリークであると知ると、とても嬉しそうでした。

ぼくはひどい劣等生だったので、授業の終わった時間に補習授業をしてくれました。さらにその後のお昼休みの時間も使って、勉強を教えてくれました。その間中、先生は一口もお昼のごはんを食べようとはしませでした。食事を用意していた予備校の事務の方がいつも大変困っていましたが…「子供たちが食べていないのに、ぼくが食べるわけにはいかない」といって、先生はききません。先生の子供たちに対する愛情は、まさしくドストエフスキーの作品世界を見ているようでした。先生がいなかったら、ぼくはきっと大学に行くことはできなかったでしょう。

作品内容にも触れておきます。『悪霊』については、いつも思うのですが、あの有名なスタヴローキンの「告白」の場面が、ドストエフスキーの最初の思惑通り挿入されていれば、衝撃的な傑作だったと思います。この一点において、この小説は失敗作に終わっているのが、無念でならない。しかし、この『悪霊』という作品、登場する人物たちが、ドストエフスキー作品中最も魅力的であると思うのは、ぼくだけではないはず。後半の怒涛の、殺人、自殺、逃亡、のストーリーのスリリングさも、圧倒的。スタヴローキンやキリーロフ、シャートフ、なによりステパンに託された思い、それらの比類なき魅力ある異端の性格を持つ登場人物を描いたこの作品は、ぼくの中で永遠に輝きつづけています。

『カラマーゾフの兄弟』全3冊 新潮文庫

最初に読んだときは2週間かかりましたから、6日で読んだのは、これまでで最短記録。ドストエフスキーのみならず、近代小説の最高峰に位置する文学作品は、これに疑いない。『カラマーゾフ』を超える小説は存在しないのです。オーストリアの哲学者のルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、この美しき残酷な作品を50回読んだ、といっていますから、ぼくはあと40回以上は読まなければならないわけです。

「おすすめの小説は何かありますか?」といわれたとき、ぼくは必ずドストエフスキーのこの『カラマーゾフの兄弟』をあげます。読破できない、という方も多いみたいなんですが…この作品を読めないならば、その方は文学が向いていないので、無駄な時間を使うことをやめたほうが賢明です。

この作品について、ひとついいたいことがあります。アーティストの方なら、誰もが一度陥る苦悩だと思うのですが、アートとは人生を捧げるものに値するものかどうか? ぼくは一時期非常に悩んだことがあったんです。ぼくの人生の大半はアートに捧げられてきましたから。こんなものはただ人が考えた絵空事じゃないか。圧倒的な現実を前にすると、小説なんて吹き飛んでしまうのは、事実です。自分が無益なものに時間を使っているのではないか、と思ったんです。

ぼくがドストエフスキーで最初に読んだのが『罪と罰』でした。画期的な作品であることはわかりましたが、はっきりいって、生ぬるい、と思った。ドストエフスキーについては、それから多くの作品を読んでいったわけですけど、『カラマーゾフ』だけは、読まなかった。文学の最高峰といわれるこの小説がつまらなかったら、今まで自分が文学をはじめとするアートに費やしてきた労力はいったいなんだったのだろうか? そう思ってしまうことが怖かったのです。でも、それは杞憂に終わりました。

アートは全人生を捧げるに値します。それを証明してくれるのが、この『カラマーゾフの兄弟』という小説です。そういう方に是非読んで欲しいです。何度も何度も、ページを繰りながら、頬を濡らして、号泣して、ぼくはこの小説を読みました。

19世紀の作家であるドストエフスキー作品をはじめ、多くの小説は長いだけで、内容自体は難解ではありません。ドストエフスキーで躓くと、さらに実験色が強くなる20世紀のモダニズム小説のほとんどを読むことは不可能です。『カラマーゾフの兄弟』だけは、絶対に読みましょう。

ちなみに、光文社の古典新訳で読むなら、読まないほうがよいです。あれはダメです。

フランツ・カフカ

『訴訟』(審判) 光文社古典新訳文庫

カフカの『審判』は、岩波、新潮の2冊とも読んでいますが、光文社古典新訳の『訴訟』と新しくタイトル替えされて訳されたものも、ぜんぶ3冊読み返してみました。光文社版は、もともと友人のマックス・ブロートの手の入っていない、カフカの草稿に基づいた、断章形式になっており、いわゆるピリオドがない構成になっています。どことなく言葉も軽やかです。

カフカは、日記や書簡を含めて、すべての作品を読むべき作家ですが、『審判』については、個人的にはあまり読み返す必要がないかな…と今回そう決着をつけた、という感じでしょうか。(でも、新訳が出たりしたら、また読むんだろうな…)

理由は、長さですね。圧倒的に長さが足りない。この3倍の長さが欲しい。カフカはもっとこの小説につめこみたい内容があったはず。

やはり、死、が終わりであることを、『審判』においては、カフカ自身は想定していなかったはずで、この小説はもっともっと深く迷宮に陥っていったはずだと思えてならない。たとえば、「門番」の話は、独自に短編としても収録されている作品で、カフカ自身とても気に入っていたエピソードらしいですが…いや、これっぽいことって、すでにドストやフローベールが、やってんじゃん、っていう…。こういうひとつひとつを掘り下げても、今の時代もうあまり意味がないかな…という気がした。

カフカを読んだのは、先述したジョイ・ディヴィジョンのヴォーカリストであるイアン・カーティスがその作詞にとても影響を受けていたためです。

『審判』については、個人的には、岩波文庫版をおすすめします。光文社版の『訴訟』は違った構成になっていますので、読み比べ見るとよいと思います。

ちなみに、『変身』も光文社古典新訳で出ていますが、他の版よりも読みやすく、これは問題もないので、光文社版でもよいと思いましたよ。

『城』 新潮文庫

カフカについては、訳は池内紀さんが第一人者というか、たぶん最も多く読まれている翻訳家だと思うのですが、…ぼくは好きではありません。池内さんの白水社のカフカ全集を、ぼくは持っていますが、池内さんの『城』がまったくおもしろくないわけです。

『城』は新潮文庫の前田さんの訳が、最もよいです。とにかく読み出したら、とまらない。ぼくの中では、カフカの最高傑作はこの作品です。

城の測量士として招かれたヨーゼフKは、しかし、なぜだか城に入れなくて、自分が測量士であるというちっぽけな存在証明のために全力をかけて悪戦苦闘する。こんな話なぜ面白いのか、というと、カフカという超凡人ヘタレ二流作家の生涯をかけた「戦いのドキュメント」が、まさしくこの『城』という作品に、結晶しているためです。

ひとつのバケツの水から、別のバケツへ水を移し、その水を元のバケツへ戻す…まさしくそんな小説。しかし、そんな労苦にも変化が訪れるわけです。この小説が読破できない、という方もけっこういるみたいなんですけど、最後まで読んでください!

この『城』に関して、「どこで読み終わってもいいんですよ」という意見を見つけましたけど、ダメです。バケツだって、壊れていくわけです。そのひとつのバケツが喪失する辺りから、その迂回する物語が少しずつ麻痺し始めるんです。これが『城』のキモなんです。

この小説のテーマは「迂回」のように一見思えるんですが、「消滅」です。そもそも城は本当に存在したんでしょうか?

『城』は未完です。カフカは、その後亡くなります。『城』は作品の最後、主人公が眠くなり、もうダメです、と倒れて意識がもうろうとなってしまうのです。カフカも同じように、その後、ほとんど無名作家のまま死に至ります。そして、ジョイス、プルースト、と並び称される20世紀を代表する作家となります。

「判決」 岩波文庫

カフカはぜひ短篇もよむべき作家です。なぜか池内さん訳は、短編だと、そんなに違和感がないんですね。『審判』『城』などは、思想が挿入されてきますから、そういうのが池内さんは苦手なのかもしれませんね。

29歳のときに、1晩で書き上げた、カフカの代表的短篇のひとつ。「初めてのカフカの小説」といってよいでしょう。親父に、死ね、といわれて、主人公が河に飛び込む、というそれだけの話なんですが…。これを書いて、「自分は小説の書き方がわかった!」といい、翌日会社をずる休みしてしまうカフカはやはり普通の人ではないです。

「流刑地にて」 岩波文庫

カフカの短篇は本当に含蓄豊かなものが多いのですけど、「流刑地にて」は彼の代表的短篇でしょう。処刑台の機械装置の話なんですが、変ってるんですよね。「流刑地にて」というタイトルが素晴らしい。処刑台そのものをマテリアル化してしまい、「死」「処罰」それらの圧倒的権威の象徴としての「力学」を反転し、無効化してしまっている。最初の頃はやられっぱなしのカフカでしたが、この頃からでしょうか。彼は「戦う作家」になるんです。それは永遠に負け続け、それでも勝負に挑みつづける戦いでした。

「断食芸人」 岩波文庫

この作品は、アメリカの現代作家、カフカと同じユダヤ人であるポール・オースターが『空腹の技法』というエッセイで、触れています。

断食をする芸人のお話なんですが、先に触れた「門番」のテーマと似ています。極めて、実存的、ユダヤ人的な発想です。さらに、「近代小説」とはなにか、がここにそっくり書かれてあります。「門番」と「断食芸人」を読めば、カフカという作家がなにを目指した人であったのかわかりやすいと思います。

kindleをお持ちの方は、これがいいと思います。読むべきカフカ作品がほぼ収録されています。ただ、翻訳者は確認していませんので、自己責任でお願いします。

アルベール・カミュ

『ペスト』 新潮文庫

普通に傑作。カミュもカフカと似て作品が少ないんですよね。もっと、読みたい。カミュについては、ドストエフスキー同様個人的思い出があります。

ぼくが最初に読んだカミュの小説は、『異邦人』でした。友達が勧めてくれたんです。

その友達がバンドをやっていて、レディオヘッドなんかにも影響を与えたキュアーという英国のロックバンドがいて、「異邦人」という曲があるんです。そのまんま、「ぼくは異邦人 アラブ人を殺す」という内容なんですね。

それで『異邦人』を読んで、面白くて、何回も読みました。次に、何を読もうかな、と思っていたときに友人が『ペスト』を勧めてくれたんです。でも、天邪鬼なぼくは、カミュ作品の中から『シーシュポスの神話』を選んでしまいました。自殺をめぐる考察からはじまるエッセイだったためです。

その高校生の夏、鈍行列車で東京へ、その友達と旅行へ行く計画がありました。そのとき列車内で、逆ナンされました。「いっしょに座りませんか?」って、他校の可愛い女子高校生たちに声をかけられました。チャンス到来です。それで、席に座って、ぼくが本を読み始めたら、「何読んでるんですか?」っていわれて、「自殺についての本です」といったら、引き潮のように、ささっーと、彼女たち数人組の女の子が別の座席に皆一斉に移動していってしまったという…。

隣見たら友達がえらい剣幕で、「だから、ペストにしろっつったろう? おれがペストだって、いったろう? ペストだ、ペストだ、ペストだ、ペストにかかって死ね、何回もいったろう? アホか!」って、東京着くまでずっといわれたぼくは、次はおとなしく『ペスト』を読みました。

『ペスト』はすごくわかりやすい小説です。面白いです。おすすめです。電車で読んでも、OKです。『シーシュポスの神話』は家でこっそり読みましょう。カミュはぼくにとって、青春の文学なんです。

イーヴリン・ウォー

『ブライヅヘッドふたたび』 ブッキング

イーヴリン・ウォーはイギリスの作家です。この『ブライヅヘッドふたたび』は、ほかにも『ブライヅヘッド再訪』や『回想のブライズヘッド』など複数のタイトルで版を重ねていますが、いづれも絶版のようですね。

ぼくが持っているのは、名訳と世評高い吉田健一訳で復刊で出たブッキング社のソフトカバーのものなんですが、吉田健一の作品を読んだことのある方はわかると思うんですが、とにかく文章が紳士的であり、洒落ているんですけれど、決してインテリジェンスに陥らない、というね。ぼくはそんな吉田の小説やエッセイも大好きなんですが、ウォーのこの作品、実際読んでみると、読みにくいですねー笑 一文長いし。おかしないいまわしもたくさんあったり。

でも、風景描写の美しさはただごとじゃないですし、徹底したドライな感覚に包まれているこの小説は、従来の青春小説とは一線を画しているのは、紛れもない。

この『ブライヅヘッドふたたび』がどういう文学作品か、というと、近代文学の特色の一つとして、主人公が「中産階級」である、ということがまずあるわけですけど、そして、「子供以上/大人未満」つまり〝青年〟というものが現れた、ということがあります。この2つは、それまでの時代なかったものです。その代表的作品が、ドストエフスキーの『罪と罰』であり、主人公のラスコリーニフその人でしょう。

『ブライヅヘッド』のテーマとは、その「子供以上/大人未満」なんですね。第二次世界大戦中、ある貴族の一家が没落していくのですが、最大の犠牲者であるセバスチャンの破滅していく姿は、まさしくこの「かつては存在していなかった」という所属なき儚さにほかなりません。

今や兵隊となって久しぶりにブライヅヘッドに偶然訪れたチャールスが、かつて自分が青春時代を過ごしたその時代を回想するという内容。当時大学生だったチャールスはセバスチャンという破天荒な同級生と友達になるのですが、そこから彼の人生も大きく変わっていくことになります。

セバスチャンの妹であるジュリアなる人物も、この作品では非常に重要な役どころです。チャールスがジュリアと恋に落ちるのは、実はあの頃の時代を取り戻そうとしているからであり、そこにはセバスチャンの陰がある。この三角関係の恋愛模様は、非常に繊細なタッチで描かれている。この美しい青春小説がかくも甘美であるのは、その背景に残酷な現実が横たわっているからにほかなりません。

カソリックを題材にしているためか、「恩寵」や「救済」なるテーマもちらほら垣間見え、この小説は、そういう点でもぼくの創作に決定的な影響を与えた作品の一つです。

実は『ブライヅヘッド』は、ウォーの作品の中では、異色作なんです。この作品がなければ、ウォーは単なる英国内だけの職業作家で終わっていたかもしれません。そして、ぼくがこの作品をそれほど愛するのは、これほど難解な小説も類例を見ない、という一面も、あるんです。

難しい技法を用いているわけじゃありません。この作品に込められた「感受性」が難しいんです。ここには人間が描かれているんです。ぼくはこの感受性こそ、小説そのものであると思いますし、そういう感受性を受け止められる人でありつづけたい、この作品を読むたび、いつもそう思うんです。

トニ・モリスン

『ビラヴド』 集英社文庫

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読破できなければ、小説を読むのは時間の無駄だからほかのことをやったほうがいい、といいましたが、トニ・モリスンの『ビラヴド』は、この小説を理解できなければ創作はやめたほうがいい、というような小説です。レベル高いです。

モリスンは黒人女性初のノーベル文学賞を受賞しています。最初ぼくは、彼女の初期代表作である『青い眼がほしい』を読んだわけです。黒人の少女が白人になりたい、という倒錯的願望を抱き、それが狂気を生み出していく悲劇的小説です。

とてもいい小説なんですが、ロジックが単純すぎるかな…という感じで、しばらくはちょっと横においておく感じの作家でした。でも、モリスンの小説はときどき読みたくなって。それでどんどん読んで行ったんですが、自分が浅はかだったことを反省しました。フォークナーで理解できなかった箇所が、モリスンを通すと鮮明になってきた部分もあって、これはぼくの創作上の大きなヒントにもなりました。ぼくにとってモリスンは、とても大事な作家の1人になったんです。

それで、何冊目かに読んだのが、このアメリカの20世紀後半最高の小説だ、という呼び声も高い、彼女の『ビラヴド』だったわけですが、まあ、これで壁にぶち当たった。

モリスンの大学での卒論はフォークナーとヴァージニア・ウルフです。この2人に共通する手法は、ジョイス経由の「意識の流れ」。モリスンはその系譜に位置する作家であることは間違いないです。実際南部を舞台に描くアメリカ作家ですし、フォークナー(『アブサロム! アブサロム!』)の影響は、特にこの『ビラヴド』には、色濃い。しかし、マルケスがフォークナーの手法を「南米」へと還元させたのと同じように、モリスンはここで「黒人文学」を誕生させています。

モリスンの小説って内容は壮絶なんですけど、やっぱりボディーブロウであって、ストレートパンチャーじゃないんですね。だから、こっちのほうにいったのかな、とも思ったりするんですけど。魂の小説といってもよいものです。読者にも魂がないと、成立しません。コール&レスポンスです。

「語らねばならない」「忘れなければならない」あとがきにあるように、この狭間だけで作品を料理してしまうのも、軽率でしょう。

この『ビラヴド』という小説の根源にあるものとして、ぼくの頭に浮かんだのは、《共振性》=〝共同体運命〟という意識です。カミュなどが問う実存としての人間とは真反対の思想です。この小説は、主人公のセラが自分の子供を殺さなければならなかった、という内容なんですが、それがこの小説のストーリーではないです。それは現実に芽吹いた発端の一つに過ぎなく、その根源に迫るためには、黒人奴隷総体の歴史全体の問題にまで拡大していく必要があるんですね。語り手が、なんの説明もなく変化していきます。それもモノローグになったり、回想になったり、歌になったり、一貫していません。一切の説明がないんです。「黒人である」ということを共有体験しないと、この感覚が理解しにくいんです。

少し脱線しますが、奴隷としてアメリカに連れてこられた黒人は、キリスト教徒であるものと、それを受け入れないものとに分類されます。「ゴスペル」は前者から生れ、「ブルース」は後者から生れます。モリスンが目指しているのは、ブルースのほうです。ブルースとは、悪魔に魂を売った音楽です。フォークナーが描いている黒人とは、異質です。モリスンに描かれる黒人は、海を渡り、アフリカ大陸まで繋がっている。

彼らは時を超えて、繋がっているわけです。それは死者とも繋がっている。悪魔、狂気とも結託している。たとえば、この作品におけるポールDとビラヴドとの関係性は、南部の底流にある狂気の芽です。この悲劇は、結果ではない。実は逆で、面白いのは、ここが入口になっているんですね。小説の最後で、すべては明らかにされますが、謎は解けないままなんです。「話は黒人問題であり難しいが、文章は読みやすい」といっている人を見かけましたが、そもそもこの小説は文章それ自体が非常にトリッキーで、一文とってみても、主語と述語がおかしいですし、難しい言葉を使っているわけではないのに、意味が解けない。文章はぜんぜん読みやすくない。これを詩的というのも、当たっていない。

この「難解さ」を苦渋として読む者も受け止めたときに、彼ら登場人物たちが、自身が吐露して回想している「過去」と向かい合うことが困難=難解だ、という苦しみが、少しずつ解けてくるかもしれません。ぼくらも彼らといっしょに悪魔を飲みこまなければならない。それが入口です。そして彼らのそれぞれの個々の苦難をどのようにつなげ、意味づけていくか、です。

「個」という近代意識と、「黒人奴隷」という反近代意識を、モリスンはつなげようとするアクロバティックなことを、ここでなそうと試みている。

本当のストーリーはそこにあり、それを黒人たちという「個」と「共振性」のつかず離れずの元に理解していくとき、ぼくらは「ビラヴド」に描かれた内容にやっと踏み込んでいけるのかもしれない。

モリスンは黒人にしかわからないアンチ白人文学的姿勢で、この小説の手法を作りだしているようにしか思えないんですよ。小説は白人の近代化=個人主義とともに成長していったものですけれど、モリスンは脱近代化の先に、さらに「脱白人」としての黒色民族の反個人的な小説を刻み込んだのじゃないでしょうか?

それも極めて反動的な態度で。それが「現実」を直視する、という行為を抜きにしてはありえないために、ひどく生々しい。

既に消費社会=ポストモダンの時代も通過し、これだけ他人に無関心になった日本人が、この小説を理解することは、ひょっとするととても難しいことなのかもしれません。ぼくたちはモリスンが訴えているような「歴史」なるものを、もう持ち得ていない。それを幸福と呼ぶべきか、非劇と呼ぶべきか?

モリスンの小説を読むなら、最初はデビュー作の『青い眼がほしい』がよいです。これはとてもわかりやすいです。というか、モリスンの小説でわかりやすい、といったら、この作品くらいかもしれません。とにかく、モリスンという作家はめちゃくちゃ「南部している」ので、黒人作家の中でぼくはダントツに好きです。この『ビラヴド』もまた読まないと、本当の良さは分からないだろうな、と痛感させられた次第です。

ルイ=フェルディナン・セリーヌ

『夜の果てへの旅』全2冊 中央公論文庫

掛け値なしの傑作。この奇跡的な小説に匹敵するのは、同じフランスなら、フローベールの『感情教育』くらいしか思いつかない。

ぼくはセリーヌは、映画の影響で読みました。フランスの映画監督であるレオス・カラックスは、セリーヌの文学を「フランスで最も美しい文体で書かれた小説」といっていますが、彼の処女長編の『ボーイ・ミーツ・ガール』の冒頭のモノローグは、セリーヌの二作目にあたる『なしくずしの死』からの引用されています。ゴダールの『気狂いピエロ』の主人公の「フェルディナン」は、ルイ・フェルディナン・セリーヌの本名から拝借されています。

村上龍さんの影響もあります。龍さんのデビュー作『限りなく透明に近いブルー』は、間違いなくセリーヌとジュネの影響下で書かれてあることを、今回改めて確認した。

全作品を読むべき作家です。でも、なんか人気ないですよね? 決してマイナーな作家じゃないですし。トロツキーも読んだくらいです。途中で読むのをやめちゃう人が多いんでしょうか? 小説は最後まで読まないとダメですよ。よさがわからないんで。ぼくは死にたくなったらセリーヌの小説を読むんです

第一次世界大戦に参加したフェルディナンが、そのあとアフリカ、ニューヨーク、そして祖国に戻って貧民街の町医者となり、最終的にはパリ郊外の精神病院に落ち着くという自伝的小説。実際、セリーヌは医者でした。

ニューヨークの場面は、本当に爆笑もので、前半の放浪部分はユーモアとペーソスが入り乱れていて、読み応え十分なんですが、後半になると、ひたすら悲哀が満ちてくる。この痛みは生きていく痛みそのもの。そしてこの強烈なネガティヴな重たさは、セリーヌ作品にしかないし、味わえない代物。

この小説の最重要脇役であるロバンソンという男が吐く最後の台詞が、この小説が何を意味しているのかを露骨に示しています。彼は愛の不可能性を説いている。ロバンソンは「夜の果て」まで、とうとう辿り着いてしまったんです。

ただただ絶望していく状況に対して落下しつづける主人公は、でも、ただ一点「見る」ことだけは失わない。彼は、なぜ自分は生まれたのか? なぜ困難なのか? などと問わない。すでに、この世界に神は存在しないからです。どぶダメの掃き溜めのクソだらけだからです。彼の目的はこの世の地獄を見届けることであり、自身もまた「夜の果て」へ旅することにほかならない。人生なんてどこへ行ってもクソなのなら、いっそのこと夜の果てまでいってみようじゃないか!

セリーヌの墓碑銘には、ただひとこと、「ノン(否)」の一語が刻まれています。

ヘルマン・ヘッセ

『知と愛』 新潮文庫

ヘッセの作品はほとんど読んでいるんですが、この作品は読んでいませんでした。晩年の作品です。批評家からはヘッセの最高傑作といわれている小説です。

ドイツの作家であるヘッセは、先行者であるゲーテの教養小説の影響がとても色濃いです。ロマン主義作風も特徴です。前期と後期に作品の色調が変る、といわれていて、そこに横たわるのが「世界大戦」です。戦争がヘッセを変えた、といわれています。作品でいえば、『デミアン』から、思弁的な哲学が物語に導入されてくるんですね。ヘッセ作品は深みを増します。

『デミアン』以降のヘッセ作品は、ぼくはこれは、ドストエフスキーの影響もけっこう大きい、と思ってます。ドストエフスキーは人間の背反する二重人格性があることを示唆しましたけれど、ヘッセの場合は、作品の人物に分裂的資質の苦悩を与えている。

人間が苦悩するのは、二重の欲望に引き裂かれているからだ、というのが、ヘッセの哲学です。

たとえば、この『知と愛』の主人公であるゴルトムントは、最初「知」に憧憬を抱き、修道院に入るわけですけど、そこで魅入られた先生であるナルチスに「君は芸術肌の人間だ」といわれ、彼は旅に出るわけです。けれども、彼は「世俗」と「芸術」のどちらの世界にも居場所を見つけることができない。さらに、「芸術」と「知」の分裂にも苦しんでいる。

この『知と愛』は本当によくできていて、19世紀の小説を読んでいるかごとく、完成度が高い小説です。過去作品のテーマをさらに具体化しているような感じですが、物語は破線を辿っている。

『デミアン』を書いたヘッセは『シッダールタ』で、ひとつの決着をつけたといえますが、『シッダールタ』以降、『荒野のおおかみ』でさらなる深みに挑むわけです。以降の2大到達点である『知と愛』『ガラス玉遊戯』(『ガラス玉演戯』)を、文学的飛躍とみるべきか、余技と見るべきか、で読者の晩年のヘッセ文学に対する価値意識が変わりそうな気がしましたね。

『シッダールタ』 新潮文庫

ぼくがヘッセでいちばん好きなのは、この『シッダールタ』という作品です。悟りを開いていく修行増が主人公です。しかし、単に解脱するとか、そういう話ではないです。フッサールやハイデガーの現象学をここに見てもいいですし、すでに後にフーコーがいった「言葉」と「もの」の哲学も、この作品には表れています。

ぼくがこの作品を読んだのは、わりと遅くて、自分の思弁を確認する、という具合に読んでしまって、「すげー、よくわかる」みたいな感じでした。もっと早くに読むべきだった…と思いましたけれど、10代の頃に読んでいたら理解できなかったかもしれませんね。川の流れ=水、に象徴化された「時間の消滅」に、ヘッセは一つの人生の解答を与えています。

ヘッセはぼくの敬愛する作家の1人です。作品もよみやすいので、文学初心者にもおすすめです。ぼくは、少し時間の余裕があるとき、ヘッセの作品を読み返します。さらっと読めますし、おまけに中身が濃厚。最高です。

初期のヘッセもとてもよいです。『郷愁』『車輪の下』『クヌルプ』とか本当に今でも好きです。

ウィリアム・フォークナー

『アブサロム! アブサロム!』全2冊 岩波文庫

これまた難解だ、といわれるアメリカを代表する作家のウィリアム・フォークナーの最高傑作です。この作品は『百年の孤独』を書いたマルケスをはじめ、たくさんの作家に影響を与えました。

ぼくがフォークナーの作品で最初に読んだのは、『響きと怒り』でした。とても感動しましたし、おもしろかったですけど、「こんなに難しく書かなくちゃいけない理由はなんなの?」と思ったのが、実は正直な感想でした。でも、ほかのアメリカ文学を多く読んで、フォークナーの作品もいくつか読み進むにつれて、考えが変りました。

アメリカはフォークナーが現れることで、「近代小説」がはじまったんです。美術でいえば、フォークナーはジャクソン・ポロックです。もちろんポロック以前もアメリカに画家はいたわけですけれど、ポロックが登場することで、アメリカは世界美術史に歴史を刻みこむことになります。音楽でいえば、ジャズです。チャーリー・パーカーが登場することで、アメリカは自身の音楽を持つことになるわけです。

実際、フォークナーを最初ぼくが読んだとき、「これ、ジャズじゃん」って、思ったんです。ポロックの絵画を観たときに、「ジャズだ!」と思ったのと、不思議なほど同じ既視感でした。一方モリスンはブルースをやっているわけですよ!(実はモリスンは『ジャズ』というタイトルの小説を書いているんですけどね笑) ブルースの3コードが実はとても複雑な音階であることを、いったいどのくらいの方がご存知だろうか?

フォークナーはジョイスを経由した《意識の流れ》の技法を、アメリカの文学に持ち込みます。ヨーロッパがもっぱら「個」に焦点をあてた文学であるのに対し、フォークナーは「土地」に注目します。アメリカ文学はここから、南部文学や、民族性が突出したユダヤ文学や黒人文学が発展し行くことになります。この画期的な『響きと怒り』は発表当時はまったく売れず、批評家からも無視され、フォークナー自身もこれを失敗作だといっていたらしいです。

ぼくは最初、高橋正雄訳の講談社文芸文庫版の『響きと怒り』を読んで、普通に読めたので、同じ高橋さん訳の講談社文芸文庫版の『アブサロム! アブサロム!』に挑んだわけですが、挫折しました…。わからん。

その頃岩波文庫で新訳が出た、というので、読んだわけです。その岩波文庫版の藤平育子訳でも挫折しそうになったわけですが、睡魔に何度も襲われながら、なんとか読み切りました。

『響きと怒り』も岩波文庫で出ていますので、どちらの作品も最初読む方は岩波文庫で読まれてよいんじゃないかな、と思いますけれど、岩波のほうが、訳が易しいとはいえます。ただ、個人的には、高橋さんの訳はとてもよいものだと思っています。岩波で読めた、という方は、高橋さん訳も読んでみたらよいんじゃないか、と思います。結局のところ、『アブロサム! アブロサム!』についてだけは、何度でも読まないと、小説の意図するところは理解できないので、どうせだったらいろんな方の訳で読んだほうがいいでしょう。

一人前の男になるためには、広大な個人所有の土地と黒人奴隷を持つことだと少年時代に誓った夢を求めて南部にやってきたサトペンなる人物を家長とする一家が非劇を迎える話です。しかし、このサトペンなる人物にはいろいろと過去に裏があったわけです。

『アブロサム! アブロサム!』の重要な論点を書きます。それはこの小説に、誰も悪人が出てこない、という点です。

以前、ぼくは編集者に小説を読んでもらったときに、「君の作品にはいつも悪人が出てこないね?」と指摘されたことがありました。要は、ドラマというものは、善と悪との葛藤の中で生まれるものであり、だからこそリアリティーが生まれるというものです。そのときぼくは、「確かにそうだ、ぼくは悪人を描き切れていない」=つまり人間を深く見つめていない、と私小説作家の葛西善蔵がドストエフスキーの『悪霊』を読んで、そのスタヴローキンの悪魔性に説き伏せられたときと同じような感慨に耽ったのですが、ぼくの小説作法もあながち間違ったものでない結論に辿り着きました。それを教えてくれたのが、フォークナーにほかならないんです。

『アブロサム! アブロサム!』に限らず、フォークナーの小説には、いわゆる悪人が出てきません。復讐劇やエゴイズムなどはありますけれど。それらは正義であること故に、狂気や悲劇性に至るわけです。これこそが《意味づけられない者》としての人間の剥き出しの本性だと思います。

殺人、狂気、復讐、近親相姦、裏取引、強奪、それらのことは、人を愛するため、家族を築くため、国家のために表れることであり、未来を進もうとするが故に「過去」は膨れ上がり、それに「蓋」をしてしまうのがこの現実だとしたら、それをひっぺがえすものこそ小説の役割りです。なぜ正義は狂気を生み出してしまうのか? 秩序は非劇を産んでしまうのか? 創作をしているものにとっては、自明でしょう。

『アブロサム! アブロサム!』が定的に影響を与えた有名な作品は、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』と、トニ・モリスンの『ビラヴド』だと思っています。両者ともその作品でノーベル文学賞を受賞していますけれど、フォークナーの最重要作であるこの『アブロサム! アブロサム!』は、小説のエッセンスがすべてつまっている、といってもよいような必読の書です。大江健三郎の『万延元年のフットボール』も、もちろんこの小説の影響ですし(プラス、ドストの『悪霊』でしょう)、中上健次の「岬」『枯木灘』の小説構造、テーマなんてほとんどこの作品からの借用といってよいほどです。

それだけ世界的な影響力を持つ作品であると同時に、興味深いのは、この小説は難解に難解を極めて作られており、一読しただけでは、まずわからない点です。

さらに、一点、個人的に重要であると思われるこの小説の論点を指摘すると、この小説は、読むことでまさしく「生成」されていくものである、ところです。読み始め、読み終わることで、過去の話が現在のものになっていきます。

フォークナーはこの作品でもジョイス的な意識の流れの手法を踏襲していますが、ここでとうとうヨーロッパとは異質な独自のアメリカ文学を起立させてしまったようです。西欧ではますます個人化し、狭窄化していく小説作法とは反対に、広大な語りの世界を獲得した。

これは「書かれたもの」ではありません。マルケスはこの点に着目して『百年の孤独』や『旅長の秋』を書いたのでしょうけれど。この作品はまさしく、「対話」と「想像」によって紡がれた一大叙事詩で、小説の最後に来て、これまでずっと語ってきたこれらの昔話のことって、全部実は嘘だったんだよね、というものであっても、一向に構わないわけです。

しかし、恐ろしいのは、この《戯言》かもしれない話をしていた人物が、その半年後に物語内の同じ狂気に憑りつかれ、まるで物語を再現するように、死に至るということです。

読まれる方は覚悟して読んでください。しかし、読み終わったあと、こんなによくできた小説はない、と誰もがなんともいえぬ溜息と共に絶対に思うはずです。

フォークナーは影響を受けたぼくのベスト3に入る重要な作家です。決定的なのは、やはりこの『アブロサム! アブロサム!』です。初めてフォークナーを読まれる方には、『八月の光』をおすすめします。この作品は前衛的手法を控えており、とても読みやすいです。これを読むことができなかったら、フォークナー文学というよりは、アメリカ文学そのものを読み解くことはできない、といってよいです。

バルザックやドストエフスキーに表れるような人物像と比べると、フォークナーの描くキャラクターは皆線が細いんですが、それでも人物の造形はみごとで、どのキャラクターも忘れられない存在です。間違いなく、次々作品を読みたくなる、病み付きになる作家のひとりですね。

G.ガルシア=マルケス

『百年の孤独』 新潮社

全世界で3000万部を売り上げ、ノーベル文学賞を受賞した、ラテンアメリカ文学の代表的作家、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』。マルケスは後に『旅長の秋』という最高傑作を書いていますが、とりあえず有名なこっちから読んでおきましょう。

マルケス自体が本当に凄い小説家なんですけどね。この作品は紛れもない傑作。ぼくは読後、めまいに襲われ、3日くらいは、ぼーっとしてました。

だけども、そんなに面白い小説なのか? というと、面白いともいえないという。どういうことか、というと、理由は、2つです。ストーリーがない。小説すべてが既視感に覆われている。ぼくは最初この作品を読んだとき、この小説のどこがそんな凄いの? と頭をひねりながらページを繰っていた、やはりそんな1人だったんです。けれど、読み終わったあとに、「この傑作は、なんじゃー!」とじわじわ胸を打たれました。名作を一刀両断する人がいますが、たいていそういう方は最後まで読んでいないんです。小説は必ず最後まで読んでくださいね。

20世紀後半に世界中でラテンアメリカ小説ブームというものがありました。ペルーのバルガス=リョサ、アルゼンチンのコルタサルとプイグ、メキシコのフエンテス、キューバのカルペンティエルとアレナス、ウルグアイのオネッティ、などが代表的で、先陣を切ったのが、やはりアルゼンチンのボルヘスでしょう。

彼らはそれぞれ独自のスタイルを持っているので、総括してこうだ、というふうにはいえないのですが、ラテンアメリカに壮大な文学の宝があることを世界的に知らしめたのが、マルケスであり、この『百年の孤独』であることは、間違いないです。未だに売れ続けており、日本の版元は文庫化する気がありません。『百年の孤独』は、ラテンアメリカの文学のひとつの頂点ですし、大きな側面を浮き彫りにはしているのは、確かです。

(ぼくが持っているのは、こっちの新装版のほうです)

南アメリカ奥地のマコンドという架空の町を舞台に、その町の一族であるブエンディアの三世代に渡る興亡から滅亡までの100年間が語られるお話です。彼らは土を食べ、獣のように生き、目的もなく革命戦争を起こし、近親者同志愛し合い、バナナ工場を建設し、三年ものあいだ長雨に降られ、死体の首を切り、発砲されて頭を打ち抜かれ、虫のように死んでいきます。ここに一切の虚飾はありません。マルケスは自分が知っていることを、ありのまま、描いたんです。

創作の観点から見ても、この小説は本当に画期的なんです。

たとえば、医療現場で実際に働いていた人が「医療」を舞台にした小説を書いたとします。その小説がリアルなものとして読者に響くかというと、そうはならない。よく、読者が、「この小説はリアリティーがある、絶対にこの作者はこういう体験をしたはずだ」といいますよね。騙されているわけです。《真実》というのは、他人にとってはリアリティーがない。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』でイワンに告白させているとおり、「苦悩が救済されないひとつの理由は、他人には他人の苦悩が見えない」からです。

『百年の孤独』は、ぼくにとって創作の大きなひとつのヒントになりました。要は、「そのまんま描けばいいんだ」ということです。

マルケスはフォークナーに影響を受けていますが、この『百年の孤独』で、テクニカルな側面をかなぐり捨てました。彼がここになにを書いたのか、というと、自分が知っていることだけを描いたんです。それは逆説的に、非現実性を帯びていきます。この幻想と現実が入り乱れている混沌の感覚が、「魔術的リアリズム」と呼ばれ、喝采されたんです。マルケスにとって「現実らしさ」の最大の特質であるストーリーも一切放棄されました。

1970年代以降に、ポストモダン(脱近代化)といわれる時代がやってきます。すべては語られてしまった、何ももう語ることはない、といわれたわけです。そのときにこのような「既視感」に覆われた作品が現れたわけです。

ここには驚くべきに値することはなにもない。ただ、夢とも現実ともいえないお話が語られてあるだけです。この「物語の復権」は、同時代の新表現主義の美術の潮流とも合致します。

ぼくが最初に読んだラテンアメリカ作家の作品は、レイナルド・アレナスの『夜になるまえに』でした。それから絶版になっていたラテンアメリカ文学の集英社文庫ものをはじめ、出来る限り買い漁って行きました。エイズで亡くなるアレナスのこの悲しくも残酷な自伝的作品は、後に画家のジュリアン・シュナーベルによって映画化されたんですが、その映画作品も素晴らしく、この作品はずっとぼくのバイブルでありつづけています。

『百年の孤独』には既視感だけがあり、すでに書かれてあるものが語られている、といいましたが、実はこの小説が画期的であるのは、重大なひとつの哲学が潜められていることを、最後に述べておきます。この作品が問うているのは、ニーチェの永劫回帰です。読みながら、なぜこの作品のタイトルが「孤独」であるのか? 読了して、それがはっきりしたとき、誰もが強烈な戦慄に打ち震えることでしょう。そういう意味でいうと、マルケスの小説もドストエフスキーやカフカと同じ、実存的な小説であることがはっきりするんです。

決して読みやすい小説ではないです。一気読みというのは難しいでしょう。しかし、マルケスのような文学に触れてしまうと、他の作家が妙に小粒に思えてきますよ。ほかの文学作品が物足りなくなること必至です。この小説を読んでから、半年くらい、ぼくは、どんな文学作品もかすんでしまった。作家志望の方には、創作の大きなヒントになる小説ですよ。

ドストエフスキーからはじまった数か月の、このぼくの読書の再読の旅は、こうしてマルケスに至って、ひとつの終点に辿り着いた感があります。

ミシェル・ウエルベック

『地図と領土』 ちくま文庫

なぜ、ぼく(ら)が、ウエルベックを読むのか? というと、彼のような現代作家がほかにいないからです。彼の小説はヴィヴィッドに現代社会に触れ、まさしく同時代に生きることに疑問を投げかける文学です。知的興味が盛られ、薀蓄が豊富、シニカルで、絶望感に満ちながらクールであり、性的な表現も惜しまない彼の作風は、スノッブたちの虚栄心を満たす好都合な小説のように一見思えもしますが、底には純然たる「哲学」があります。

『地図と領土』は、それまでセンセーショナルを巻き起こし、批判も多かった彼の文学が、好評を持って迎えられた小説です。アートが産業に取り込まれていく現代社会の「資本主義」がテーマになっていて、とてもおもしろい。

ミュシュランを撮影するという街の地図を写真に収めた主人公のジェドが、アーティストとして成功を収めるのは、彼の作品がアートとして認められたからではなく、産業という市場側から評価されたためにほかなりません。彼は油絵に転向し、肖像画を手掛けるようになりますが、市場が常に善である、という現代社会のルールが変化することはありません。彼は成功の階段をさらに登っていきながら、この経済活動の上昇気流に戸惑いを隠せない。この小説が興味深いのは、人の生や死までもが市場の中に消費されている、という現代社会の当然の事実です。

ウエルベックは、それを極めて丁寧なディテールで、観察者であることに徹して、文明社会に翻弄される人間たちを描いていきます。

現代アート狂のぼくから見たとき、画家を主人公にした作品ですから、どこかに傷があるんじゃないかな―、などと思ってあら捜しするも、まったくないですし、描写の緻密さに筆の乱れが一切ない。そういうところも、ウエルベックが多くの読者の信頼を獲得できている誠実さの表れのひとつでしょう。

たとえば、この作品の場合、ジェフ・クーンズとダミアン・ハーストの対比、ビル・ゲイツとスティーヴ・ジョブスの対比、これなど見事としかいいようがない。ルネサンス、ラファエル前派の解釈、ピカソをこきおろしている箇所など、すべてにおいて疑問に思うところがなかった。この小説にはミシェル・ウエルベック本人が、実名で登場して事件に巻き込まれる、という奇想天外なあらすじも盛り込まれているんですけど、芸術家たる作家自身そのものも消費の渦中に飲みこまれることも厭わない。

こういうところが、ウエルベックが好きか、嫌いか、が分れてしまうところかもしれません。非常にユーモアが効いています。このユーモアは単なるこけおどしやはったりではなく、真率なものですが、反感を買ってしまうように描き出している風にも見えるわけで、敢えて微妙な綱渡りをしている。

ウエルベックの小説はさらっと読めますし、いかにも現代風なんで、一見軽妙に思えるんですけど、読み終わったあと、なんて手の込んだ小説なんだ、と感嘆せずにはいられない、まさにそういう典型の小説です。今、を切り取っている文学作品を読みたい、という方には、ぜひおすすめですね。『地図と領土』は特に読みやすいですから、この小説でウエルベックに興味をもたれたら、代表作の『素粒子』をおすすめします。

結局村上春樹以降、このような作家は、日本からは登場しなかった。日本の文学は終わったのだな…と痛感させられます。

読書はなんのためにもならない、そこがいい

ほかにも、大好きな作家、木村捷平、小山清、金井美恵子らの短篇はいくつか読みました。いわゆるつまみ食いです。マン、が読めなかったのが、残念。あと、フローベール、ムージル、スタインベック、カネッティ、スタイロン、ミラー、モラヴィア、グラス、ロス、クンデラ、武田泰淳、小島信夫、辺りも読みたかった。ポラーニョの『2666』はまだ読めていない。村上春樹を読むんじゃなかったなぁ…。

村上春樹はこれでもう卒業ですね。そういう意味合いで読みましたし。日本の現代小説には、もう興味ないです。もう十分読んだ。(職業作家として、彼らに倣おうと、けっこうな勉強してきた自分をせいいっぱい褒めてあげたい。)

ドストエフスキー、ヘッセ、フォークナー、マルケスらは、ぼくにとってとても重要な作家で、主要作品はいつかレビューしたいですね。『罪と罰』でつっかかってしまっている、という方も多いのじゃないのかな、と思いますし。

村上春樹全作品解説、みたいなものもやってみたいですね。

柄谷行人を読解する、みたいなこともやってみたいです。唯一ぼくが文芸評論・思想家で全作品を読破した人で、めちゃくちゃ影響受けてるので。思想家の東浩紀さんのお師匠さんにあたる方ですね。

(まあ、これらはあくまで願望です。忙しくて、やってられないのが、正直な現状)

せめて、ぼくが選ぶ私家版文学ベスト10はやりたいですけどね。もう、10冊は決まっているので。

読まねばならない作家リスト

最後に、この夏読んだ作家を格付けします。ぼくは基本的にアーティスト作品に優劣はない、と思っていますが、作家にはやはりあると思っています。ざっくりいってしまえば、古典になる作家と、時代に淘汰されていく作家です。もちろん今回挙げた作家は、すべて古典に属する作家です。村上春樹さんの作品もこれから読み継がれていくと思っています。

3つに分類しました。

全作品を読むべき、世界史を超越する神レベル作家

  • フョードル・ドストエフスキー
  • ウィリアム・フォークナー
  • ルイ=フェルディナン・セリーヌ
  • G.ガルシア=マルケス

全集で全作品を読むに値する作家です。読んでいないと、話になりません。

できれば読んでほしい、歴史に名を残す文豪レベル作家

  • フランツ・カフカ
  • ヘルマン・ヘッセ
  • トニ・モリスン

一流の作家であり、後発の作家に多大な影響を与えたことは間違いない作家たちですが、作品傾向として、嗜好性が分れてしまところがあります。たとえばカフカなどは20世紀文豪の1人といわれていますが、現在その作品は消費され尽くした感じがあります。実際、カフカ文学を全否定する文芸批評家もいます。

興味があればどうぞ、世界に名を馳す一流レベルの作家

  • アルベール・カミュ
  • イーヴリン・ウォー
  • ミシェル・ウェルベック

その作品が時代の潮流に乗っかって時代遅れ感があったり、独特の作家性故癖があったり、その世界観が狭いものだったりする、あるいは、傑作ではなく良作、名作に留まってしまうようなタイプです。

村上春樹さんは、この下のレベルくらいの作家、でしょうか。

今後の展望

これまでぼくは一応商業出版界の末端に籍を置いていました。商業出版の世界は、編集者の指示で作品を描きますから、とにかく読まれるような小説作りをこころがけなければなりません。

それは、まったく個性を殺されたものではないですが、商業でやる、というのは「純文学」を含め、すべてそういうものです。はやりもの、賞狙いのもの、読みやすいものを編集者と共に創る、というのが、プロ作家です。

業界に入っていちばん驚いたことは、小説は作家が作っているものではなく、出版社が作っているものなんだ、ということでした。作家の発言力は極めて小さいです。(たぶん読書されている方は知らないと思います。)

TVを考えると、わかりやすいかもしれません。ドラマであれ、ニュース番組であれ、TVのすべては「広告」ですから、あれと同じ仕組みです。

「利益」(賞も利益になります)にならないものは、この社会には要らないわけですけれど、この考えは、ぼくの小説に対する考えと逆行することになります。小説とは社会に不要なものであり、不要なことを描く、というのが、ぼくの考えなので、ぼくはどうしてもその疑問を捨て去れず、商業出版界をやめました。ひょっとすると、その門を潜り抜けて、さらに個性を発揮できる人だけが、本当のプロになれるのかもしれませんね。ただ、創作者の道は人それぞれだと思います。それを続ける人もいていいし、辞める人もいていい。

重要なのは、「利益」にならないことを必要としている人間がいるということです。柄谷行人風にいうならば、どうにもならないこの現実に対する、終わりなき闘争として、物語を必要とする人間がいる、ということです。

ぼくは自分のために小説を書いていません。誰かに向かってやはり書いているわけです。

今後の展望として、ぼくはこれからは、一年に一作、中編か長編作を、仕事の合間をぬって創作し、完成させたいと思っています。すでに、今年創作予定の中編のプロットをしあげました。(少なくとも読んでくださる編集者はいらっしゃるので)

以前、KDP(Amazonのセルフ出版)で、短編作品を2つ収録したミニ短篇集を三冊、長谷川善哉名義で出版しましたが、電子書籍にはほとんど絶望しています。復活も考えていますが、あまりに読者が少ないので、それでもまだ読まれたほうだと思いますが、徒労感がどうしてもあります。要望があれば、またやるかもしれません。ただ、一人でこつこつと我が道を歩んでいくのがぼくには合っているかな、と思っています。

とにかく、文学や創作からは離れられない人生かな、と今年の濃い読書の季節を過ごしたこの夏を振り返って、そう思った次第です。

この夏は、仕事の時間を極力に抑え、それ以外は、ずっと家に閉じこもり、本を読んでいました。そのような贅沢な時間を過ごさせてくれたこの人生に感謝します。

最後に、一言。

文学って、素晴らしい、ですね!

※ 感想やメッセージ等あれば、お問い合わせフォームからお気軽にどうぞ^^

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