痴人の愛 谷崎潤一郎

谷崎は時代的にも、その反骨精神的にも志賀直哉なんかと比べられたりするみたいですけれど、僕にとって谷崎は漱石と比べるのが相応しい、自分の中での日本の小説家の2トップです。書いている作品も、仕事の軌跡も、小説に対する考え方も、この2人はまるきり違うのも面白くて、それで谷崎でぜひ紹介したいのが、代表作のひとつでもある『痴人の愛』です。

痴人の愛 (新潮文庫)

痴人の愛 (新潮文庫)

痴人の愛』のストーリー

痴人の愛』のプロットは、30歳を過ぎたサラリーマンの主人公河合譲治が、幼い少女を自分の身に引き寄せて、次第に自分好みの女に育てあげていくが、やがて自分の思い描いてきた現実以上の妖艶な肢体に育って、それにたじろぎ、その姿に逃れられなくなっていく、という、いわば〝ファム・ファタル(宿命の女)〟を表現したものです。この作品は〝マゾヒズム〟とは何か、〝フェティシズム〟とは何かを余すところなく豊かに表した小説ともいえて、作品は、河合譲治が、キャフェで働く貧しい少女ナオミを引き取り、一軒の家を間借りして、同居するところからはじまります。

 私がナオミにこのことを話したのは、始めて彼女を知ってから二た月ぐらい立った時分だったでしょう。その間、私は始終、暇さえあればカフエエ・ダイヤモンドへ行って、出来るだけ彼女に親しむ機会を作ったものでした。ナオミは大変活動写真が好きでしたから、公休日には私と一緒に公園の館を覗きに行ったり、その帰りにはちょっとした洋食屋だの、蕎麦屋だのへ寄ったりしました。無口な彼女はそんな場合にもいたって言葉数が少ない方で、嬉しいのだかつまらないのだか、いつも大概はむっつりとしています。そのくせ私が誘うときは、決して「いや」とは云いませんでした。「ええ、行ってもいいわ」と、素直に答えて、何処へでも附いて行くのでした。                   (『痴人の愛』 谷崎潤一郎)

譲治はナオミを、いかにもこの時代の流行的な西洋人らしい女に育て上げようと、色々な教育を施します。(まさしく奈緒美ではなく〝ナオミ〟に)。しかし、 彼の思うような女にはなっていかない。でもナオミから離れることはなく、というよりさらにそこに溺れる事態となっていきます。やがてナオミは精神的な意味では譲治の 思惑を裏切るわけだけども、肉体的には譲治が予想するよりも遥かに淫靡にその妖艶さを増していくことになっていくわけです。彼は逃れがたくなっていくんです ね。
ナオミがダンスを習いに行きたいといいだし、譲治もそれに釣られて出掛けていく場面があります。そこでナオミとナオミの同世代の仲間たちに翻弄さ れ、譲治は一方的に振りまわされる滑稽な事態を経験する。譲治は既に最初の自分の思うような女に、という思惑などもう何処かへうっちゃってて、ナオミの我 侭ぶりに憤慨しながらも、でも嫌いになることがない。というより、自身が何者かに振りまわされるそのこと自体をすっかり楽しんでいるかのような感じになっていきます。

 しかし、読者よ、これで私がすっかりナオミに飽きが来たのだと、推測されては困るのです。いや、私自身も今までこんな覚えはないので、一時はそうかと思ったくらいでしたけれど、さて大森の家へ帰って、二人きりになって見ると、電車の中のあの「満腹」の心は次第に何処かへすッ飛んでしまって、再びナオミのあらゆる部分が、眼でも鼻でも手で足でも、蠱惑に満ちて来るようになり、そしてそれらの一つ一つが、私に取って味わい尽くせぬ無上の物になるのでした。            (『痴人の愛』 谷崎潤一郎)

痴人の愛』に描かれた主題

痴人の愛』という稀有なこの小説には、例えばこんなふうにあっけらかんとこの作品の主題であるマゾヒズムの本質が書かれてある箇所があります。

 女が男に騙されるのは、実は文字通り、女が男を騙しているからではなく、多くの場合、女に騙されていることを知っていながら、男はその騙されることを楽しんでいるのだ。  (『痴人の愛』 谷崎潤一郎)

やがてナオミは、譲治に隠れて、多くの男たちと関係を持っていたことが次々と明かになっていきます。ここがこの小説の最も緊張しているところです。譲治は当然のごとく最初憤慨して、ナオミを説き伏せようとするんだけれども、どうやらその自分の育て上げたナオミは、自分の手中に丸く収まるような簡単な女でないということがここに来てようやく譲治にも明確にわかってくる。それでも譲治はナオミを諦めることができない。彼はその妖艶な肌にさらに溺れ、身を破滅させて屈服し、ナオミの意のままに自分が奴隷となることで、元の「結婚」生活というものをはじめる、そこでこの小説は終る……。
といった筋だけ辿ると、これは?? ですが(笑。
しかし、これはとにかく聖と俗、西洋と日本との対比を見事に表した傑作小説なわけです。
ここにマゾヒズムの本質が、あますところなく通俗的に描かれているのがなにより面白いです。マゾヒズムとは、谷崎がその文学において積極的に作品にとりあげた主題ですが、つまるところ〝肉体主義〟にある、というより、それを逃れてはなにごとも有り得ないものであるという思想です。精神よりも肉体を尊いと思うとき、人は一般的な意味で、確かにマゾヒストになります。そこにはいかなる主体性も有り得なく、全ては肉体の元で同一性に回収される。そして滑稽さや狂気が増す中、隷属としての快楽が発生するのです。
支配に全てを治めていくのがいわば男性的な意味での〝精神的快楽〟とされるものだとしたら、逆のことを女性的な意味での〝肉体的快楽〟といえるかもしれません。けれども、谷崎の〝マゾヒズム〟は、従来の意味での「マゾヒズム」を越えています。単なるSMとは違うのです。
もうちょっと内容に踏み込んでみてみます。
この小説に描かれたナオミは、我侭三昧をいい、誰とでも寝る女です。男にしてみれば、まあいちばん厄介なタイプです。彼女の実体は、何処まで突き詰めても譲治にとってみたら謎で、それを捕らえようとするとき、肉体というよりも、その表層的な〝皮膚(フェティッシュ)〟としてしか捕らえることができない感じになっていく。彼女は幽霊だ、という叙述さえ実際出てくる。既に、この小説の後半では、彼女の現実的実体など、呆気なく拭い去られています。
小説の最後で、譲治はナオミの意のままとなるわけだけれども、これは彼が精神を葬り、肉体に根負けしたというのは違います。彼は彼女に一本でも指を触れてはならないといわれるので、それでも彼は彼女と生活を共にしたいと願うわけです。このとき既に「エロティシズム」は〝フェティシズム〟に敗れている。
小説中、譲治は自身の精神を食い散らかされ、同時に肉欲も奪われていきます。ただそこに出現するものがあるんです。それは「近代」という時代を呪い、当時の「自然主義」という文壇の意味合いを終始嫌った、ひとりの芸術家谷崎純一郎〝美意識〟です。それが忽然と姿を現すわけです。やがてそれは失われた壮大な〝物語〟を、〝日本の美〟を育んでいくことになります。

マゾヒズムについて

たとえば男女の日常的な性格に還元して、マゾヒズムというものを考えてみるなら、男が支配的性格であり、女が非支配的性格である、というのは実はぜんぜん正しくありません。なにも女性だって支配的な性格の持ち主もある、ということじゃなく、そもそも一見非支配的な性格にこそ、〝支配への欲望〟が高鳴っているからです。
女が男の意のままに従って行動するとき、それは男に隷属して純真なように見えて、実は自分が思うように、相手が自分のことを支配してくれることを望んでいるに過ぎないのです。男に支配されることを切望しながらも、それらが自分の思惑とは違ったほうへ支配されはじめると、相手を嫌いだす。これがいわゆる被支配者としての〝我侭〟と呼ばれるものです。
単なる〝我侭〟と〝自己本位〟、〝身勝手〟と〝抵抗〟とが意味合いが違うように、谷崎は、そのように相手に支配される「マゾヒズム」を描こうとしたのではなく、目的を定めるためにこそ、そのような「マゾヒズム」という被虐意識を、作品に利用したのだと思います。谷崎が実際にそういう性癖があったのかどうかはわかりませんが、僕はこの手の性向は谷崎自身によるものというより、当時西洋被れをしていた日本そのものの体質を、谷崎がそのように見てとったことが大きな理由だと思っています。
※               ※
当時近代化著しい日本は、まさしく西洋かぶれをしていくマゾヒストさながらでした。それまで長きにわたって育んだ日本的感受性や文化を喪失し、とにかく欧米列強の進んだ豊かな文明の支配下に身を置くことに喜びを覚えていたんです。
完全なる〝自己本位〟や〝抵抗〟が現実に存在などしないように、常に〝我侭〟と〝反抗〟とは紙一重であることは一理あります。ただそれが〝他者〟に見られたとき、単なる〝我侭〟や〝反抗〟が、当人を根底から揺るがす〝自己本位〟や〝抵抗〟になりえます。『痴人の愛』というのは、まさしくそのことが書かれた稀有な小説なんです。
痴人の愛』に登場する悪女ナオミは、こういったタイプはいつの時代にもいるわけです。映画でもさんざん描かれたものです。おなじみの女性像です。ただ問題は、それと対峙する男の譲治のほうです。
ナオミは〝悪女〟などではなく、谷崎が捏造した〝他者〟に他ならないということが大事だと思います。彼女は客観的に見れば、単に男を翻弄している女のように見えるけれども、それに振り回される当人から見れば地獄へも破滅へも突き落とし、天国へも昇天もさせるいわば女を超えた「存在」として現れてくるわけです。
谷崎が『痴人の愛』で描いていることは、女に敗れ去る男、社会に敗れる人間、そしてなにより西洋に敗れた日本といってしまってもいいと思うけれど、そのとき敗れたときにその者はどうするのか、という話です。
肉体に魅せられ、でも、それを手に入られない男は、大抵「プラトニック」という内面に着地します。まあ脳内でイメージを補完するわけですが、谷崎は肉欲を賛美して精神を貶めるのではなく、肉欲に敗れながらも精神に舞い戻るのでもなく、それを突破する。というより、現実的な意味でそこに留まる姿勢を示した。
それは恐怖に対峙しながら、そこから決して逃れないような姿勢で、これは極限状況の人間模様を描いた武田泰淳が「ひかりごけ」で〝わたしは我慢している〟といっていた状態などと似ています。なぜ、それが我慢できるのかというと、そこに美が現れるからです。というか、そこにしか美は現れない。
谷崎は芸術至上主義に生きた人だといわれていますけれど、死ぬまで美にこだわりつづけた作品を書きつづけた作家だったのは間違いありません。「現実」は主観の中で豊饒化し、一義的な「現実」は破れ、本来苦痛でしかない身動きのできない状態に、快楽が発生していく。そこに美が訪れる。『痴人の愛』で描かれたのは、そういうものです。

芸術家谷崎潤一郎

漱石が『吾輩は猫である』を書いたのが38歳。50歳前にはもう亡くなっているので、作家生活はわずか十年ほどです、まことに短いです。でも作品の多彩さということでは、谷崎には引けを取ってはいない。
谷崎は20代前半で文壇デビューして、80歳近くなくなるまで、ずっと一線で活躍していた。晩年といわれる頃に、有名な『細雪』を書くわけですけど、さらに『鍵』とかを書いて、話題をさらって復活してくる。小説家として生きた歳月も半世紀以上に渡っていて、とにかく息が長い。なにより驚くべきことは、彼はかなりの早熟でもあるんです。
谷崎は若い頃永井荷風に師事しましたけれど、すでに20代のときの「刺青」や「少年」のような短編を書いている。短編も上手く長編も上手く、芸術的でもあり通俗性も備えていたなんて、こんな作家谷崎しか思い当らないです。
僕がさらに谷崎が凄いなと思うのは、かなり下品というか、未完もあるし、実験的でどうでもいいような作品もけっこう書いてるところなんです。ジャンルも幅広い。当時主流だった自然主義小説が本当に憎かったみたいで、やたらめったら攻撃しまくっている作品とかもあったり(笑、志賀直哉に対抗するために「異端者の悲しみ」とか、自ら身の丈の合わない私小説に挑戦したり、とにかく谷崎は反骨精神の塊です。
谷崎が思っていたのは〝支配される〟ことを望みながら、やがて「支配する」「支配される」という枠組みを超えていくことにあったと考えられます。マゾヒズムとかいっても、いわゆるSかMかって話じゃなくて、その支配/非支配が破れるところにこそ生み出される〝美〟を描くということです。人間の枠組みを超えた場所、意識化を徹底的に突き詰めた果てに、もう引き返せぬ地平で思わぬ〝意識的恍惚〟をせしめる「芸術の驚愕」そのものが現れてくる。
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意識とはそのような〝不快=恍惚〟を出現せしめる、まるで徒労の道筋であるかのように、なんとなく貶められるようにもこの作品には描かれてあります。谷崎が『痴人の愛』で示した西洋風の「白い肌」とは、処女作で示した「刺青」と通底する、肉体賛美の〝フェテイッシュ〟そのものです。
谷崎潤一郎の最高傑作はたぶん『細雪』だと思うんですけど、最初に読むなら、この『痴人の愛』がいいんじゃないかな、と僕は思います。とにかく読みやすいです。爆笑問題太田光さんはTVで『春琴抄』勧めていました。短編も面白いものがたくさんあります。初期の「刺青」一作だけでも、読む価値大です。この短編だけで仮に谷崎が死んでも、僕は彼は文学史に名を刻んだと思います。『痴人の愛』は欧米だと〝ナオミ〟というタイトルで出版されているのは有名ですね。

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