ひかりごけ 武田泰淳

日本文学の「戦後派」と呼ばれる中で好きな作家はたくさんいますけども、代表的な人が武田泰淳かなと思います。泰淳はもともとお坊さんで、中国文学を勉強していました。戦争に引っ張られて、その中国の戦線へ行くことになって、中国は泰淳にとってあこがれの国で、そこで生死についてたくさん考えたんだと僕は思っています。泰淳は戦場でいくつもの惨たらしい光景を見ました。自分も一兵士としてそこに加わったことが、彼の最大の事件だったんだと思います。

泰淳は最初に『司馬遷』(1943)という史伝を書きました。この作品はとても重要なものです。その後『風媒花』(1952)『森と湖のまつり』(1958)『富士』(1971)と、すごくいい小説をたくさん書いています。有名なのは「ひかりごけ」(1954)かなと思うんで、とりあえずこれについて書こうかと思います。「ひかりごけ」はカニバリズム(人肉食)のお話です。

ひかりごけ (新潮文庫)

ひかりごけ (新潮文庫)

ひかりごけ」は戦時中に起こった実際の事実を元にしていて、それをもとに泰淳が小説化(半分は戯曲)したものです。オホーツク海の島に四人の船員が漂着して、そこで人肉事件が起こります。船長と西川と八蔵と五助の四人が、そのときの登場人物です。

 私が羅臼を訪れたのは、散り残ったはまなしの紅い花弁と、つやつやと輝く紅いその実の一緒にながめられる、九月なかばのことでした。今まで、はまなし(はまなすと呼ぶのは誤りだそうです)の花も実も知らなかった私にとり、まことに恵まれた季節でありました。

はまなしの花は五弁であり、花のかたちも、茎のとげも、羽状の複葉も薔薇に似ています。風の荒い北辺の砂丘にふさわしい、強靭な枝葉は、やや黒みがかった緑色で、バス道路に沿って、けなげにまたいかめしい風情で、垣根のようにつづくその緑色のあいだに、点々とのぞき出す紅い実は、赤蕪に似た色をしています。球をおしつぶした形の実は、赤く染められた木彫りの細工物のように見える。

標津(ねむろしべつ)の駅前から、羅臼の港まで、ひどく揺れるバスは、根室海峡を右に見て走ります。したがって、今はソ聯の領土となった千島の国後島が、青い海面に平べったく延びている姿が、いやでも視野に入って来ます。    (「ひかりごけ」 武田泰淳)

四人は食うものも見当たらず、餓死寸前に追い込まれた末、互いの人肉を食うという非人道的な行動に、やがて出ます。結局生き残ったのは船長ただひとりだけだという悲惨なものでした。
彼は苦難を生きて英雄として帰還します。最初は皆から喝采されて迎えられますが、事件が次第に明るみになるにしたがって、人々はその恐ろしい真実に打ち震え、彼を追及して糾弾するに至ります。
この小説は三つの舞台に分かれています。

1 リアリズムで描かれたプロローグ

作者と思しき語り手が事件のあった羅臼を訪れるリアリズム場面。

2 第一幕の「マッカウス洞窟の場」

四人の人物が登場するカニバリズムの起こる戯曲。

3 第二幕の「法廷の場」

帰還した船長が裁判所で裁かれる戯曲。

第一幕目の彼らの「極限状況」を描いた戯曲の場面から見ていくことにします。

ひかりごけ」第一幕

生き残った船長は「悪人」として、最初から作者の手によってこの小説に登場してくる設定になっていることが大事だと思います。彼は漂着して最初に人肉を食うことに目覚めた人物です。そのことを仄めかされたほかの三人は、このときその非人道的な行為に、当然のごとく反発的な感情を示すわけですが、そういう経緯がここに明らかにされています。

この一幕目で、もっともヒューマニズムあふれる人物として描かれてあるのは、最初に死ぬ五助だといえます。彼は人肉を食べることなく、すぐに衰弱死してしまいます。遺言として、八蔵に、自分の肉を食べることだけはしないでくれ、と頼んで死んでいきます。

次に死んでしまうのがその八蔵です。彼は五助の遺言を固く守って、決してその体には手をつけずに死んでいきます。逆に堪えきれずに食べてしまうのが西川という男で、彼は人肉に手をつけた自分の態度を深く恥じ、苦悩する人間として描かれてあります。最低限の誠実さを示す人物として描かれてあるわけです。
自殺をはかる西川を殺してしまう船長はその肉も食べて、結局ひとり生き残ります。極悪非道な人間のこの船長に、人道的な感情はひと欠片も見当たらないように思えます。彼にはヒューマニズムや理性、なにより「人間」というもの尊厳が皆無のように思えます。

ひかりごけ」第二幕

次に二番目の、船長が裁かれる審判の場面を見てみます。この場面もやはり一幕目同様戯曲で、ここで船長は検事に追いつめられる立場として登場します。〝カニバリズム〟の罪を問われる場面が描かれています。

 検事 被告は現在、どんな気持でいるのか。すまなかったとか、悪かったとか、人間らしいことは考えていないのか。

船長 (悲しげな口調にて)答えなくてはいけませんか。

検事 答えなさい。何ももったいつけることはない。

船長 私は我慢しています。

検事 何を我慢しているのか。

船長 いろいろのことを我慢しています。

検事 いろいろじゃわからんよ。例えば何を我慢しているのか、遠慮なく言ったらいいじゃないか。

船長 ……例えば裁判を我慢しています。

(「ひかりごけ」 武田泰淳)

自身の弁護人からも呆れられてしまうのですが、彼は自分のやったことをどう思うか、と問われたとき、「自分は我慢しているだけ」というようなことをこたえます。それ以上の言葉を発せず、奇妙な態度をとります。「我慢しているというのはどういうことか?」とさらに聞かれ、「ただそれは我慢しているだけだということであり、それ以上いってもわかってもらえないだろう」といいつづけます。この場面での重要性は、船長の風貌が一幕目と違って、普通の人間、というより、ひどく善人の特徴を備えた人間として現れていることでしょう。
彼が異常者の振りをしてここで言い逃れをしているようには、読者には受け取れません。彼が、「あのとき我慢していた」し、「今も我慢している」、とこの場面で言うのは、どうやら何かしら意図があるような気がしてくるのです。そこには嘘偽りの一切も見当たらないように思えるのです。

ひかりごけ」プロローグ

ようやくですが、最初のプロローグの場面を見てみてます。
リアリズムで描かれた序盤では、一人称の「私」と名乗る小説家とおぼしき主人公が「マッカウシ洞窟」を――戯曲場面では、マッカウス、となっているのに対し、実際は、マッカウシ洞窟である、と記される――、つまり事件のあった場所を、現地の校長先生に連れられて訪れる場面が描かれています。校長が、以前、戦時中にここで本当にひどい事件があったらしい……と語りはじめ、実際にこの「カニバリズム」の事件はあったことがわかります。泰淳はそれを取材して書きました。続く一幕目と二幕目の戯曲は作者のフィクショナルな「創造」の様子が大きいわけですが、ここだけ史実のように読めるわけで、そしてこの連なりにおいて、この小説の重要なことが次第に浮き上がってくると思われます。

案内人として現れた、いかにも善人風のこの校長ですが、実は一幕目の、まさしく人肉を食べた極悪非道な犯罪人のその「船長」と風貌が酷似しているのです。鋭い読者は思うかもしれません。「じゃあ、校長先生こそが善人面して実は本当の極悪人だったのか!」というそんなサスペンス的オチが、この作品に企まれているというのかというなら、残念ながらそうではありませんが、しかし、この「一人二役」の役者の振る舞いが、決してシュールな様相を帯びるわけでもなく、実はそういうふうでも内実は一理含まれるものがあるのも事実であって、このようなところに作者武田泰淳のきわめて巧妙な小説的画策が計られているのは疑いありません。

ひかりごけが意味するもの

そもそもこの小説のタイトルである〝ひかりごけ〟とは、何でしょうか?
最初に校長と「私」が不思議に光る苔を見に行って、それが見当たらなく、「ほら、足元に光っていますよ」といってふたりで確かめる場面があるのですが、それは意識して見ようとしても見えない、ひっそりと人知れず光り輝く〝象徴的な輝き〟のようなものです。
本当に「ヒカリゴケ」は実在する苔なんですけども、この〝ひかりごけ〟が一幕目で、八蔵が、「人肉を食べたものには背中に独特な光の文様が現れる」といってその光のことを言及する場面があるわけですが、これが同じ意味合いを差し示すように小説には書かれています。五助を食った西川の背中にはそれが見えるわけです。観客にもそれが知られるようになっています。
第二幕目で、その光は船長だけではなく、人肉を食べていない検事や、弁護人や裁判長にまで現れる設定となっています。これが小説のオチらしきものとなっているわけですが、「人間が非人道的なことをやってしまった罪の象徴である光」であることはわかりますが、これだけではどうも腑に落ちないことが出てくる。
なぜなら、ではなぜ、裁判官や検事など、その現場に居もしない、人肉も食べていない者にまでそれは現れるのか、ということになるからです。

ひかりごけ」と「野火」「海神丸」の違い

この「ひかりごけ」という作品は、同じ〝カニバリズム〟を題材にした野上弥生子の『海神丸』(1922)や、大岡昇平の『野火』(1951)なども想起させて、それらの二つの作品と同じ極限状況を描きながら異質なものを訴えている作品となっていることは重要です。
それら二作は、あくまで人肉を食うことは非人道的なことであり、そのような状況と出会ったときに人間の対応とはどのようなものか、という、いわゆる「ヒューマニズム」から作者の筆が出発しているわけですが、泰淳がここで書いたことは、違っているのです。
ひかりごけ」は、最初から人肉を食べることが前提となっており、そういう人間がいきなり登場してくるわけです。これがまったく読者には腑に落ちません。その船長に読者は感情移入できないし、単に極悪人としか思えない。その人物が自分の罪を問われて、その者が人肉を食べていない人間について自身の〝罪〟を問う、という設定になっています。

この作品の謎は、一幕目でいかにも極悪人として描かれた船長が、二幕目では善人として現れてくるところに間違いなくあるといえるでしょう。船長は極悪人で、冷静に最初から人肉を食べることを用意周到に企んでいて、仲間が死ぬのを待って、実際に食べてひとりだけ生き残るわけですから、極刑をいいわたされて当然ですが――食われるのが嫌だといって小屋を逃れて死のうとする、最後に残った乗組員を殺してその肉を食べてしまう――ただ彼が法廷でこんなことを述べる場面があることに注意すべきです。

自分を裁けるのは、自分の犠牲になった五助と八蔵と西川だけだ

こういう場面において、作者の武田泰淳はいったい何を訴えているといえるでしょうか。

人肉を食うことは罪である、という場所からこの小説は出発してはおらず、動かしがたい「ヒューマニズム」そのものを揺らがせる立場から筆が起こされています。
皆の背中に〝ひかりごけ〟が見えてきはじめることは、誰もが罪を犯していなくても本当は罪人であり、誰だって極限状況に陥れば船長のようになるかもしれない、犯罪を犯していなくても、胚胎としての〝罪〟は皆にある、というような「原罪」を問うているようにも思えますが、――実際にこの小説の意図はそういうことにもなると思いますが――やはりこれもまた少し違っていて、この小説はもっと深い部分に筆が届いているものがあることは疑いがありません。

「戦後」の外にある泰淳文学

武田泰淳によって周到に〝フィクショナル化〟された一幕目を、もう一度詳しく見てみることにします。

ここに現れるそれぞれのキャラクターの四人の人間は、五助、八蔵、西川、船長です。五助は最初に死に、八蔵は人肉を食べることを拒否して死に、西川は人肉を食べたことを後悔して死に、船長は率先してすべての人肉を食べて生き残ります。
船長はひとり生きて帰ってきて、裁判にかけられて、「我慢している」と口にします。「原罪」を作品に刻印しようとして作者がこの〝人肉事件〟を取り上げたとするなら、このようなそれぞれの人物の心の葛藤図は描かなくてもよかったんじゃないか、と僕には思われるわけです。

船長が法廷で「私はただ我慢している」といったその言葉は、一幕目においてすでに表れてくるわけですが、自らの罪について後悔する西川と船長とのやりとりで論議されるその言葉は、とても摩訶不思議であり、読者だけではなく、船長以外の登場人物をも突き放す作用を持っているように思えます。

船長は死んだ乗組員を食べることに迷いがなく、それを問いかけた西川に、「俺は我慢している」というだけです。彼はいったい何を我慢しているというのか。この小説の〝深さ〟の最大の要素はそこだと思わざるをえません。

極限状況において、人肉を食べるしか生き残る方法がないとして、我慢しているとはどういうことか。

この極悪非道の船長が、二幕目でその言葉を繰り返し述べることにおいて、彼は「異形の者」であるどころか、極めて生々しい人間として立ち現れてくることが、だんだん明らかになってくるのがこの小説の面白さだと思います。人肉を食ったこの男はもちろん罪人ですし、裁かれなければなりません。しかし、食べることに躊躇した西川や、食べることを拒否した五助たちが、船長よりも極悪人ではなかったといえる根拠は、どこにあるんでしょうか?

ひかりごけ」という小説は、武田泰淳という作家の代表作といわれています。日本近代小説の傑作のひとつとしても数えられる作品です。これは人肉を食うことが正義か悪か、その論点を無視した妙な小説です。これはそんな簡単な主題を持った作品じゃないです。誰だって原罪を背負っているというような人間の苦悩を描いた作品でもないです。
最初から仲間を食うことを躊躇わないで登場するこの異常な船長のキャラクターは、すでにこの世界の〝何か〟について気づいている人物として、わたしたちのいる「この世界」に突如現れてきます。「あの世じみた霊気」を濃厚に漂わせたこの性質は、やはり戦場の光景に実際に出会った武田泰淳じゃなければ書けなかったものであったのは間違いありません。大岡昇平のような「戦後民主主義」の文脈に立っていた作家の「足場」を粉砕するところから、この作品は想起されています。つまり「ヒューマニズム」が揺らぎ始める「極限状況」における人間の深度について、この小説は言葉を鋭利に挟み込もうとしているのです。

極限状況について

我慢しているのだ、という船長の言葉をもう一度深く考えてみましょう。

我慢しなければ生きていけない、というこの作品で再三表れるその船長の言葉は、人間は愚かな存在だということを知っているに留まらず、実際に愚かなことをしてしまうしかなかった人間の後悔でも、罪意識でもなく、単に呟きの言葉のようなものだといっていいと僕は思います。
思想や論理でもなく、何々主義とか、ヒューマニズムだとかを超えた、原始的な極めて人間的そのもののようなつぶやきです。
実際に極限状況に身を置いて「ひかりごけ」に描かれた、たとえば登場人物のひとりである西川らは、そこに対峙しながらも、船長と違って、本当の意味でこの呟きを吐きださせる「極限状況」には気づいてはいないといえます。

真の意味での極限状況とは、罪も罰も無効になってしまう人間という本質の残酷さ、その世界を耐え抜いた者だけが感じることのできるなにかのようなものです。この「ひかりごけ」に描かれた主題とは〝極限状況〟についてであって、カニバリズムではありません。

司馬遷生き恥晒した男である」と泰淳は『司馬遷』の処女作の冒頭に書きましたが、その〝痛み〟を露とも知らない人間たちによって、非道に裁かれてしまう人間たちがいて、「ひかりごけ」にはそのことが描かれているのです。日常と銘打たれた、それに撃ち抜かれてしまう倫理の儚さが、そもそも武田泰淳の作品群には、この「ひかりごけ」に留まらず、首尾一貫して描かれています。
罪人を攻撃しているのは、人間を問うはずの、実はその「ヒューマニズム」です。それを楯に取る人間たちは、現実的な罪を問いながら本当の意味での〝本当の罪〟については、実は一向に手を触れようとしていない。この小説にはそういうことが描かれてあります。人々は極限状況というものを理解しようとはしないのです。

ひかりごけ」の普遍的テーマ

武田泰淳が「ひかりごけ」というこの作品で描いてみせた苛烈な〝罪〟の解釈は、漱石の「無意識の偽善」と似ているように僕は思えます。泰淳はこの小説を大岡昇平の『野火』への批評的なものとして構想したと僕は邪推しますが、泰淳は大岡昇平の『野火』も高く評価しているので、単にそういう一面で書かれた読み物じゃないことは述べておかなければなりません。誰も好き好んで極限状況に身を置いたりしません。しかし、そこに身を置くしかなかった人間というものがいて、そこから帰還することは、それほど罪深いことか? とにかくそういう言葉がこの作品を読むと突き刺さってくる。

ひかりごけ」に描かれた罪の本質である、その〝ひかりごけ〟を見ることができるのは、語り手の「私」と、船長に酷似した風貌の現地の校長のふたりであることはとても重要なことです。さらに西川にその言い伝えを諭して聞かせる八蔵が、やはりその光を見ていることも、とても重要な箇所だと僕は思います。敢えて人肉を食べずに自ら命を絶つ八蔵は、この小説内の人物の中で、船長のほかに例外的に「我慢していること」について知っている人間だったかもしれない、と思えます。
だからといって八蔵が〝罪〟の刻印を免れうる「美しい人」として記憶されるか、というのではもちろんないわけで、自分が死んだらその自分の体が船長らに食べられてしまう、その現実を知って死んでいくことから敢えて自分の誠実を貫き体を差し出した八蔵は、結局ヒューマニズムを捨てきれない人間だったという意味合いを批判できない要素があるわけです。

二幕目の最後、この罪の視線を一身に浴びた船長の姿は、ゴルゴタの丘に向かうイエス・キリストの風貌にそっくりです。罪の本質を知ったイエスが、そのことをまるで知りもしない、知ろうともしない人間たちによって命を奪われてしまったことは、戦時下を生々しく生き抜いた武田泰淳にとって、〝戦争〟を知らない人間たち=「戦勝国の論理」に無残に裁かれる戦時犯たちの哀切な感情と似た、筆舌に尽くしがたいものだったと思います。
端的にいってしまうなら、誰も戦争を裁ける人間などいないのです。武田泰淳がここでいっているのは、そういうことです。
もし、それを裁ける人間がいたとしたら、それは実際に戦地に行って、殺したくもない誰かを殺してしまった者だけです。極限状況とはなにかを知っている者だけです。

何も泰淳はここで戦争なるものを肯定しているわけではありません。自分のやったことを正しいことだといっているわけでもありません。繰り返しますが、誰だって極限状況に陥れば罪人になってしまうという、人間の本質を問うものであるのだともいいがたいわけです。その証拠に、人肉を食べずに死んでいく人間たちも、「ひかりごけ」という小説にははっきりと描かれているからです。

ひかりごけ」の訴えるもの

泰淳が書いた「ひかりごけ」というこの稀有な小説が、ある種の極限状況において現れる矛盾を苛烈に告発していることは、間違いないことです。
それでも生存せざるを得なかった、生存したいと思えてしかたなかった、そんな人間たちがいる。それも人間です。それは「善悪の彼方」に位置する、本当の人間です。無知なる人間の暴挙さで罪を刻印されてしまう、そこから〝罪の本質〟を露見した、その点がこの小説の独特さです。そしてこの小説はそれらの〝罪〟を知ろうともしない愚かな人間たちを背後から撃ちます。単なる裁判の罪より、原罪の罪より、その〝罪〟こそが人間の本来もっとも愚かに光り輝く〝ひかりごけ〟であるという生々しい告発としてです。

この「ひかりごけ」という小説を読むと、とにかくそんなものが読むものに迫ってきます。極限状況に陥った人間たちは皆死に絶えるべきというのか。戦勝国の「ヒューマニズム」で片付けて、犯罪者として片づけられて、世間の側に出てくるべきではないのか。
人々が彼らを敵視する背景には、その罪に対して憎しみを抱く感情というより、何か得たいの知れない遠くからやってくる人間を排除したい邪心が働いているからと思えてくるものがたぶんにあります。「戦後日本」はそのような「欺瞞」として、今なお動いているといってよいです。
それは「正義」や「平和」という、極めて盲目的な暴力装置として押し殺し、「罪」という名で何かを隠蔽しようとする極めて野蛮な〝殺戮的意識〟によって、この日常において、戦争の実体以上の醜さでずっと働いています。
極限状況(カニバリズム)は非現実の戦場のみに起こる出来事ではありません。日常の教室や会社でも僕たちは実際こんな裁判を行っているわけです。それこそがもっとも偽善の〝罪〟です。この小説が訴えているものはそういうものだといえるでしょう。

ひかりごけ」とはそのような〝光〟が存在する印象であり、そしてもしこの偽善に満ちた世界で言葉を吐くとしたなら、「私はただ我慢している」と船長のように呟く、そのことしかないのかもしれない。泰淳はそういうことをこの小説で書いたのだと僕は思います。

「異形の者」について
武田泰淳の小説は、実にユニークなものが多くて、この新潮文庫にいっしょに収録されている「異形の者」(1951)は、人間は誰しも死んだら極楽に行く、と信じる元坊主が、なぜそれを信じるに至ったかを語るという話で、これも面白いので、この作品についても書きます。主人公は武田泰淳と思しき人間で、彼と哲学者がいい争う場面から、作品ははじまります。

私は最近、ある哲学者の説に反対をとなえた。その学者はものごとを真剣に考えるたちであり、私より十歳も年長でありながら、私の十倍も情熱家であった。彼は狂的なほど芸術を愛好し、ひたすらこの世ならぬものの美にあこがれていた。彼はもしからしたら、私の愛する部類にぞくする人間であった。(と言っても、私は、自分が誰か人間を真に愛するなどとは、どうしても信用できないのであるが)。

(「異形の者」 武田泰淳)

主人公(武田泰淳)は、現世での欲望、とりわけ肉欲を捨てきれない男として登場します。彼は中国的な思想や文化に惹かれて、家もお寺であったことから、仏教について修行をしている身です。強い信仰心があって、そうであったから寺に入ったというより、その意味合いを探るために剃髪したという意味合いが強いような人です。ひとつの事件が起こります。
穴山という、同じ修行僧の男と決闘することになって、それがこの小説の主軸のストーリーですが、遅刻した僧侶を監督の僧が殴ったという事件がまず勃発して、反発した穴山がその男を同じように殴ってやると騒ぎだす。他の僧侶たちの様々な意見が繰りだされて、最後に主人公が穴山の意見に異議を唱えることで、皆の喝采を浴びて、事件が落ち着くという展開になって、それを穴山は快く思わないわけです。実は主人公は穴山を故意に怒らせるために、そのような発言をしたとも見えます。根本にあるのは、本当の解決策とは何であるのか、ここで彼がそれを仏に問うているように見えるということでしょう。

さまざまな執念があなたの前にささげられた。死んだ尼僧や、親族を失った老若男女の、涙が何万石となくささげられた。俺もこうしてあなたの前に座っていると、馬鹿らしいとは考えても、何かしら本心を語りたくなるのだ。あなたは人間でもない。神でもない。気味の悪いその物なのだ。そしてその物であること、その物でありうる秘密を俺たちに語りはしないのだ。俺は自分が死ぬか、相手を殺すかするかもしれない。もう少したてば破戒僧になり、殺人犯になるかもしれないのだ。それでもあなたは黙って見ているのだ。その物は昔からずっと、これから先も、そのようにして俺たち全部を見ているのだ。仕方がない。その物よ、そうやっていよ。俺はこれから髪棄山に行くことにきめた。  (「異形の者」 武田泰淳)

この小説内で、哲学者が「自分は死んだら地獄へ行く」というのに対して、主人公が異議を唱える場面が描かれている箇所があるのですが、それに対して「皆、人間は死んだら極楽へ行くことになっているんですから」と彼はいうわけです。
もちろん、これは単にすべての人間が極楽へ行くことになっているという意味合いではなく、この小説に描かれた「私」、つまり泰淳が、そのように自身で思うに至った経緯をここで語ろうとして、これは語られたんだと思われます。
つまりこの「異形の者」という小説において、この主人公がここで本当の決闘を挑んでいるのは穴山ではなく、仏なのです。決闘に行く前に、彼は仏像の前に座って、今引用したような言葉を吐きます。

この、その物である、とは何か。

事件のとき、僧侶たちは意見が分散し、穴山の気持ちも静められることもありません。そこに至るまで、仏は何も力を貸してくれません。修行の身とはいえ、坊主が寄り集まって、喧嘩している非常事態だというのに、この体たらくです。
主人公は自分の肉欲はやはり抑えられそうにもないといいます。穴山は自分の性器で障子を次々と破っていく遊びに耽り――石原慎太郎の「太陽の季節」にも同じシーンがありますが、泰淳のほうが早いです ――この場面を見ても、主人公は穴山を憎んでいるようにはやはり思えません。肉欲の衝動を開けっぴろげにする同じ気質の穴山に、彼は同調している風です。このとき決闘するに至る主人公は、穴山を共犯者にして、仏に対してある種の戦いを挑んでいると間違いなく思えます。

「異形の者」に描かれた救済

この小説は、他の泰淳の多くの作品がそうであるように、構造的というか、観念的というか、わかりにくい風合いを持っていまして、結局回答が与えられないようになっています。ここで泰淳は自身を〝異形の者〟といっているわけですけれども、この「異形の者」とは、「この世にいながら、なお、あの世の存在を信じているお坊さん」のことを差しているのではなく、また、葬式にしか自分たちが想起されない、世間と断絶したそのような存在、ということでもなく、肉欲や権力闘争に塗れた、この世に存在している人間たちすべてのことを指しているのは間違いないです。にもかかわらず、「私は信仰の意味合いを問いたい」と泰淳はいいいます。

泰淳は一切の肉欲を絶って、修行を貫徹していった年老いた僧侶たちももちろん尊敬しているようですけれども、自分は違う、というようなことをいっている。現世の肉欲を捨てきれずに、信仰心も捨てきれない。そのような矛盾にこそ実は本質の信仰の意味が隠されているんじゃなかろうか、とそんなことを問うわけです。なぜなら救済そのものが非論理的で、矛盾したものだからです。
泰淳が考える〝極楽〟とは、そのような解決しない問題を抱えて、この世を生きている人間たちがそこに見つめるようなものといえます。

死んだら皆は極楽へ行くことになっている。

この「異形の者」に書かれたテーマとは、どんな悪いことをした人間でも罪は浄化されて天国へ行くということではなくて、〝極楽〟とは、この世にありながらあの世にしか存在していないような矛盾した存在のあり方にこそあるもので、この難しさが、信仰の難しさでもあり真実であり苦悩でもあるというようなことです。泰淳はこの小説でそれを書こうとし、結局最後までそういうことを問いつづけた作家だったと、僕は思っています。

武田泰淳の文学

現世で何も救われない人間を唯一高みから見守っている、そんな意味深い信仰心が存在します。救いがないことが救いである、という泰淳が行き着いた究極の〝信仰〟の在り方が、この二つの作品には強く問われているように僕には思います。
泰淳の小説はわかりにくいことを語ろうとするから、曖昧になって、そういう性格が多分にあることから、その作品群を低く見る傾向もあるようですが、〝救済〟をどうにか小説において語ろうと苦心した傑出した作家だったことは疑いがありません。泰淳の最高傑作は『富士』だと思いますが、これも機会があったら、書いてみたいです。彼の小説を読むと僕はいつも救われた気持ちになります。どんな人間も死んだら〝極楽〟へ行くのです。

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