楢山節考 深沢七郎

楢山節考」(1956)は中央公論新人賞を受賞した深沢七郎のデビュー作です。当時文壇を震撼させた、日本近代小説史における衝撃作のひとつです。
いわゆる<姥捨て>の民間伝承を、作者が創作して小説化したものですが、この作品にある独創性は、最後につけられた著者楽譜はもとより、人物たちが歌うたくさんの挿入歌など、「民間伝承を書き言葉に小説化した」というそれ以上の文学性を達成しています。そこに衝撃的な技法が潜んでいます。

実際に誰かの物語を傍で聞いているような節回しを持って仕上がっているこの傑出作には、それまで存在していなかった技法が潜んでいました。

楢山節考 (新潮文庫)

楢山節考 (新潮文庫)

楢山節考」について

当時中央公論の賞の選考委員に三島由紀夫がいました。三島はこの深沢の作品を読んで、「悪魔の文学を発見した」と日記に書いているんですが、三島は深沢の描く近代小説的なヒューマニズムの存在しないこの作品の性格にとにかく驚いたと思われますが、三島をはじめ、このときこの小説を読んだ多くの人は、そのように「伝承を題材に借りた小説」として読んだのだろうと思います。

自ら進んで歯を叩きおり山へ登ろうとするおりんと、山に行きたがらない親を無理矢理にがけ下に突き落としてしまおうとする息子の辰平。「楢山節考」というこの一見おぞましく不可解な作品の魅力を解き明かすポイントとしては、なによりそのふたりの視点における語りの複眼的視点があると僕は考えます。

 山と山が連なっていて、どこまでも山ばかりである。この信州の山々の間にある村――向こう村のはずれにおりんの家はあった。家の前に大きい欅の根の切株があって、切口が板のように平たいので子供達や通人達が腰をかけては重宝がっていた。だから村の人はおりんの家のことを「根っこ」と呼んでいた。嫁に来たのは五十年も前のことだった。この村ではおりんの実家の村を向こう村と呼んでいた。村には名がないので両方で向こう村と呼びあっていたのである。向こう村と云っても山一つ越えた所だった。おりんは今年六十九だが亭主は二十年も前に死んで、一人息子の辰平の嫁は去年栗拾いに行った時、谷底へ転げ落ちて死んでしまった。後に残された四人の孫の面倒を見るより寡夫になった辰平の後妻を探すことの方が頭が痛いことだった。村にも向こう村にも恰好の後家などなかったからである。   (「楢山節考」 深沢七郎)

作品の冒頭部分ですが、美しい文章じゃありません。言葉に流麗さがなく、ぽんぽん投げ出されている感じで、起こった出来事を淡々と書き記していくような文章です。深沢の小説は、なにも美しい風には書かれていなかった、というのが通説ですが、同時に、醜悪なものも書こうとしなかったということが特徴だと僕は思います。じゃあ、なにを描いたか? というと、近代小説の最中、ひとりの死者(=無)が紡ぐものとしての物語=伝承を、予告もなしに登場させたというのが、彼の文学だと思います。「楢山節考」はその風貌だけにとどまらず、近代小説的な作品群とは方法意識が根本的に異質なのです。

 辰平は歩み出したのである。うしろを振り向いてはならない山の誓いに従って歩き出したのである。
十歩ばかり行って辰平はおりんの乗っていないうしろの背板を突き出して大粒の涙をぽろぽろと落した。酔っ払いのようによろよろと下って行った。少し下って行って辰平は死骸につまずいて転んだ。その横の死人の、もう肉も落ちて灰色の骨がのぞいている顔のところに手をついてしまった。起きようとしてその死人の顔を見ると細い首に縄が巻きつけてあるのを見たのだった。それを見ると辰平は首をうなだれた。「俺にはそんな勇気はない」とつぶやいた。そして又、山を下って行った。楢山の中程まで降りて来た時だった。辰平の目の前に白いものが映ったのである。立止まって目の前を見つめた。楢の木の間に白い粉が舞っているのだ。
雪だった。辰平は、
「あっ!」
と声を上げた。そして雪を見つめた。雪は乱れて濃くなって降ってきた。ふだんおりんが、「わしが山へ行くときァきっと雪が降るぞ」と力んでいたその通りになったのである。辰平は猛然と足を返して山を登り出した。山の掟を守らなければならない誓いも吹きとんでしまったのである。雪が降ってきたことをおりんに知らせようとしたのである。知らせようというより雪が降ってきた! と話し合いたかったのである。本当に雪が降ってきたなあ! と、せめてひとことだけ云いたかったのである。辰平はましらのように禁断の山道を登って行った。                   (「楢山節考」 深沢七郎)

たとえばこれは母親を今まさに捨てていこうとするクライマックスのシーンですが、「楢山節考」には人間の「内面性」のようなものが積極的に描かれていません。三島のような作家がこの小説に衝撃を覚えたのは、そんな強烈なカタストロフィをもたらすはずの〝死〟さえもが、あっけらかんと受け入れられている心理描写の素朴さにあっただろうことが想像されます。生の方向からカタストロフィとしての「死」を抽出してみせる近代小説的志向とは反対に、最初から死者の手によって描かれた物語が、そっけなく書かれてあったわけです。正しくいって、これは人間の手によっては書かれてはいない〝物語〟です。その〝死〟はだからこそ、より〝残酷〟であり、とてつもなく〝美しい〟のです。

引用したのは「楢山節考」のクライマックス場面は、リアリズムの叙情豊かな小説として読むには、作者の工夫が足りなさすぎます。しかし、この作品の本分は、事実に基づく自然主義のリアリズム小説とは異質であり、本当の意味で、「事実」も「嘘」もなく〝ありのまま〟を提示する物語をフィクショナルな想像によって書いたという思惑が、作者の意識に潜んでいることにおいて、別の側面を現しています。近代意識的な人間の追及などまったく無視して、物語は展開されていきます。

母親を捨てるという行為についての主人公の内面の葛藤は希薄です。そして降ってきた雪がその書かれなかった内面を覆うように描かれていきます。これほど美しい情景描写は、小説史上類例がないです。それは人物の内面性が投影された「抒情」を超えているから美しいんです。
自然主義に代表される日本の近代小説は、一人称にしろ、三人称にしろ、作者の視点が一定の人物に限られているのがそれまでの特徴で、端的にいって、「楢山節考」の独創性は、その集約的な視点が解体されているところにこそあります。この手法は深沢のやはり代表作のひとつである、この新潮文庫版にいっしょに収録された「東京のプリンスたち」で、さらに具体化されているのが見てとれます。

「東京のプリンスたち」について

楢山節考」とは時代背景も舞台もまったく異にする「東京のプリンスたち」(1959)は、実は「楢山節考」と同じ手法で描かれた作品です。
登場する若者たちはエルヴィス・プレスリーの音楽に熱狂する高校生たちで、視点が交互に表されるこの語り手の〝複眼〟は、ストーリーを語るためにそうなっているのじゃなく、物語られることを拒否するためにこそそうなっているんです。

 たばこの煙りが靄のように籠っているから鳴っているジャズの音も外へ逃げないような気がして、(やっぱり、この店はいいナ)と思いながら洋介はいつもの隅の場所に腰かけていた。さっきから黄色いガラス越しに外をながめていたが田中はなかなか来ないのだ。とっくにデイトしている筈だから、もうここへ来る頃じゃないかと待っていたのだった。田中のデイトの相手が「もう一人、友達を連れて来る」と言って、そのもう一人を洋介に紹介してくれることになっていた。どんな女生徒が来るのか、それが待ちどおしいのでもなかった。田中も相手とは昨日知りあったばかりのデイトだった。一緒に連れて来るという女のコがどんな顔をしているのか、一寸知りたいだけだ。デイトするのは好きでも嫌いでもなく、唯、女のコがそばにいるとなんとなく気が落ちつけるからだ。   (「東京のプリンスたち」 深沢七郎)

現代を生きる不良学生たちのこの「刹那的」視線は、〝瞬間〟だけにしか存在しなく、「消失点」を持ちません。どこかへ向かおうとする意志も意味合いもなく、つまり「非小説」的なものといっていいです。書き方が内面性に迫っていくようになっておらず、描かれる外観描写はその内面の「投影」ではないのです。

複眼的な視点が近代小説においてなぜ消滅したのかは、色々議論があるところだと思いますが、このように内面描写をせず、なおかつひとりの人間の意識に集中しないということは、つまるところ人間の追及が不可能になるということです。

「東京のプリンスたち」に描かれたのは、ストーリーでも人間の内面性でもありません。それは文字通り〝理由なき反抗〟であって、あらゆる「意味づけ」に染まらない不良少年たちの自由、その無軌道な振る舞いが、この技法によって鮮やかに表現されているのです。

「東京のプリンスたち」で、学校を辞めて運送業で働きはじめる青年と、彼女と連れ込み宿に向かいながら、突然プレスリーの音楽に聴き入って何もしないで出てきてしまう青年、さらに「楢山節考」における、楢山に捨てられるおりんの視点と、楢山に親を担いで歩く息子の辰平の視点、それらはすべて同じものです。なぜそうなのか、という内面を追及していく発端がないのです。

深沢が描く「物語」のリアリティー

本来、伝承の類の多くが作者不詳なのは、単に誰が語っているかわからないというにとどまらず、生者としての作者の存在=起源を根こそぎ解体しようとする欲望が終始に漲っているためです。「物語」は近代主義的な小説とは異質であり、それ以前に無効になったものというより近代以前も近代以降もそのように死者として生きつづけている生々しい生きた語りなのであって、誰かの手によって作られたものではなく、だんだん伝えられてきたということにこそリアリティーがあります。

深沢七郎の小説が持つ残酷さと美しさとユーモアは、その辺りの性格に強く結びつくものを持っています。「作者」は存在しません。存在しないといっても、深沢七郎という人が存在しているじゃないか、というのであれば、作者である深沢七郎という人が「存在」しているということを信じていないとういいかたが正しいと思います。だからこそ〝存在〟しているといえます。

彗星のごとく日本文学に現れた「楢山節考」という小説は、日本の近代文学とは違った方向軸の「物語」の可能性を匂わせました。作者はこの題材が事実かどうかなど、そんなことについてはまったく無視しており、「楢山節考」に書かれた、年老いた母を捨てるという行為が古来あったかどうかなんていうことも、実際どうでもいいことなのであって、私小説作家がこだわった「ありのまま」のリアリティーを、この作品は完全に解体してしまっているのです。
この小説でもっとも興味深いのは、母親を山に捨てるという残酷な行為について、主人公がなんの疑惑も挟まないという、まさにそのことでしょう。人間の葛藤がないのです。

「風流無譚」事件について

深沢七郎はデビュー当時、その懸賞小説の選者だった三島由紀夫武田泰淳正宗白鳥ら、多くの作家に絶賛され、幸運な作家人生のスタートを切りました。しかし、「風流無譚」事件が1961年に起こって、それによって、彼の作家人生が大きく変わっていくことになります。
深沢は天皇を侮辱する残酷な描写をその作品に書きました。そのことで掲載した中央公論の社長宅に、右翼団体大日本愛国党を名乗る元党員の少年が侵入して、奥さんに怪我を、お手伝いさんを殺害してしまいました。
右翼の少年を登場人物にした大江健三郎の「政治少年死す」も、やはり右翼からと同時期攻撃を受けましたが、深沢七郎の場合は死者を出したということがあって、脅迫を逃れて、東京を脱出し、埼玉に住んでラブミー農場を開いて葡萄を作ったりする生活を送るようになります。
当時「風流無譚」が掲載される前、三島由紀夫はその小説を読んで、これは問題作なのではないかといい、自分のやはり問題作になると思われるだろう「憂国」を同時に掲載するように編集者に提案したといいますが、三島は、「特別な配慮があったわけではない」、と当時のことを述べていますけれど、その対照的な作品を同時掲載することで、双方の文学的意義を強調したい思惑があったかもしれません。(実際には一月後に「憂国」は掲載されました。)

※                    ※

三島由紀夫のような作家が深沢七郎のその点に驚いたように、その〝驚かないこと〟が主人公を通して描かれてないことではなく、作者が〝驚く/驚かない〟という内面的追求についてまったく無頓着なことが、その「楢山節考」という小説のなにより驚異的で独創的な点でありました。

深沢七郎の文章は、とにかくあっけらかんとしています。彼は小説の作法を知らなかったともいわれていて、実際にときに文法的に間違っている文章も書きました。「私はほとんど小説を読まない」と自身でも生前いっており、確かにそれはお世辞にいっても美しくはない文章なんですけれど、近代小説を逸脱する離れ業を持ち合わせていたのは事実です。

深沢七郎の小説の持つ不可解さは、親を捨てるもの、捨てられるもの、異性と関係を持とうとする者、持たない者、それらの対立した視点で表されるものが、等価に扱われている書き方にあるのは疑いがないです。
ユーモアがあって、ふっと笑ってしまうような箇所も多分に持っていて、「楢山節考」は、本当に随一の傑作だと思います。
彼はギタリストでもあります。深沢七郎は終始庶民側にいつづけた愛すべきアウトローでした。

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