挟み撃ち 後藤明生

後藤明生にとっての最高のもののひとつであると同時に、1970年代の日本の文学においてもとてもいいものなんじゃないかなと、僕は思っています。日本の戦後文学を考えた中でも、とても重要な作品だとも。
『挟み撃ち』(1973)というこの小説、とにかく、唐突、脱線、迂回、横へ、横へと流れて、結局何処へも辿りつかずに、様々に主人公の胸に明滅する過去のエピソードが、でも、ちゃんと元の鞘に収まっていく構成です。そこには脱線する出来事を繋げる確かなひとつの柱があって、それは「外套探索」という、いかにも小説的な主人公の〝自分探しの旅〟なんですけれども、これがどういう作品か、とにかく奇妙なのです。

挾み撃ち (講談社文芸文庫)

挾み撃ち (講談社文芸文庫)

世界とは偶然の産物

ある平凡な中年男が、橋の上で佇んでいるところから物語ははじまります。主人公はある朝、ふと唐突に思いついたのです。あの外套は何処へ行ったのだろう、と。その「外套」とは、主人公が20年前に着ていた〝失われた自分〟の象徴です。それは主人公が長らく夢見ていた、ゴーゴリの『外套』という小説のことでもあります。

物書きと思われしきその冴えない主人公は、ロシアの文豪ゴーゴリのような『外套』を是非自分も書いてみたいと常々思っています。そしてその〝小説〟を求めるように、過去に失われた外套を探しあてようと思いはじめていくことになります。
この『挟み撃ち』という小説のはじまりで重要なのは、そもそもなぜそんなふうに彼が外套を探索し、それが自分探しに繋がるものであるか、それがはっきりと理由づけされないというところです。これは単なる「自分探し」の小説じゃありません。その動機そのものが偶然であり、突発的なのです。

 にもかかわらず、わたしはあの外套の行方をどうしても思い出すことができない。というより、その行方不明となった外套の行方を、考えてみること自体を忘れていたのだった。いったいわたしは、いままで何を考えてきたのだろう? もちろん生きている以上、さまざまなことを考えてはきた。あの外套の行方を考えることを忘れていたのは、たぶんそのためだろう。これは大いなる矛盾である。しかし、なにしろ外套、外套、外套と考えるだけでは、生きてゆくことができなかったからだ。当然のことだが、矛盾がわたしを生きながらえさせたのだ。
ともかくわたしは、ある日とつぜん早起きをした。このとつぜんの早起きについて、最早や何か説明を加える必要はないだろう。わたしに限らず、誰ででもこのようなある日は、あるはずだからである。ある日とつぜん何事かが起こるのであり、それは必ずしもわたしたちの誰もが予定を立てていた通りの生活であるとは限らない。あるいは待ち望み、あるいは夢見たり、またあるときは不安におののきながら予感していたような出来事ばかりとは、限らないだろう。ある日とつぜん何事かが起こる。ということは、何が起こるのかわからないわけだ。実際、生きている以上、何が起こって止むを得ないだろうし、どんなことだって起こらないとは断言できない。そしてそれが何故起こったのかは、更にもっとわからないのである。     (『挟み撃ち』 後藤明生)

ある朝、突然男はそう思いつきました。カフカの小説にも似ています。ある朝突然虫になっているんだけれど、なぜ? とは問わない。この小説の主題、それが小説中自ら語り手によって、吐露されている部分が、この引用した箇所です。

先にいったように、これはそもそも〝脱線小説〟といってもいいくらいの〝脱線に継ぐ脱線の構成〟なんですけれど、最初に主人公が過去に大学入試試験に落第するとこから物語が書き進められていることに注視すべきです。つまり小説は最初から、主人公が人生に脱線したところから始まっているのです。
脱線することによって、この小説はそれまでの男の二十年の過去を回想しながら、現在の出来事であるような錯覚を思い起こさせていきます。
不意を突かれる、印象的なシーンがあります。実にユーモア巧みに読者をその世界へ誘っていきます。そんな「時制」「空間性」の自由な場所から、主人公がこの旅においてつかみとるのは、この世界の〝偶然性〟と呼ぶべき悲劇です。

すべては突然であり、謎のまま

この『挟み撃ち』という小説はとにかく奇妙なんですけれど、読んでも読んでもとにかく男がなにかを手にするとは思えないのです。今いったように、考えも一貫していません。この男そのものがなんか魅力のない人物です。彼があまりに平凡すぎるのです。
でも彼なりに真剣な態度なのはわかります。彼はここで必死に何かになってみせようとしていて、何を演じてみせているのかといえば、ゴーゴリが描いた『外套』のように、自分も「小説」になってみせようとしているのです。
無論彼はゴーゴリの小説の人物じゃありませんし、当たり前ですけど、ゴーゴリ自身でもないです。大学の試験に落第するような、埼玉の公団住宅にようやく当選して慎ましく家族と暮らすような、そんなあまりに平凡すぎる特徴のない男です。
脱線に脱線を重ね、迂回に迂回を重ね、そんな一見徒労の中、やがて彼が見出すのは、この平凡な日常の〝偶然性〟という衝撃です。彼はそのことに驚きます。そのことを誰かに伝えたいと思っています。そしてそのことを読者に伝えたいと思っていて、この小説はきっと書かれたんです。

 しかし、わたしの拳を、荒縄を巻きつけた板の手前で止めさせたものは、決して、新制高校の教科書民主主義への忠誠心ではなかった。ただわたしには、不思議だっただけだ。アカハタを読んでいる駐留軍キャンプのウォッチマンである兄と、同じ年である拓大空手部員の古賀弟との間に挟まれている自分が、何とも不思議なものに見えたのだった。その不思議さが、見よう見真似でおぼえてしまった拳突きの恰好から繰り出されたわたしの拳を、あの板の五寸手前で停止させたのである。
「お前は、子供のときから兵隊になりたがりよったとやけん、よかやないか」
それと、もうひとつ。
「バカらしか、ち!」
の挟み撃ちだった。
(『挟み撃ち』 後藤明生)

この物語中盤の文脈において、この小説のタイトルである〝挟み撃ち〟という言葉が登場してきます。これはすぐ後のさらにとりとめのない過去への回想で具体的に叙述されていくわけですが、この辺り、主人公が上野の映画館前で、20年前の過去の記憶から、さらに10年以上前の過去の記憶へと、小説はさらに大幅に〝脱線〟していき、ここがこの小説のクライマックスだと思えますが、その唐突な〝ブラックホール〟のような大きな逸脱する仕組みに、小説は最も緊迫した事態を迎えます。
そもそも、なぜこの『挟み撃ち』の主人公は、自らの小説を書くことが不可能なのか。ポイントはそこでしょう。ゴーゴリに憧れたりせずに、自らの小説を書けば良いではないか。平凡でも構わない、小説を書きたいなら自分の小説を書けばいいではないか。
しかし、その不可能性が、歴史的文脈として、主人公の内奥の必然的な問題として、とうとう明らかになるのです。

 また、変わったのは、とつぜん変わったのではなく、いわば当然であり、必然であったのかも知れない。しかし、わたしには、やはりとつぜんだったのである。
「パンマンモック、トンマンサンヌ、リイボンヌムドラー!」
あのとき兄の口から出てきたこの朝鮮語が歌であり、それは『パノイパイ』とまったく同じ節であったことが、とつぜんでなかったといえようか。そしてそのとき『歩兵の本領』もまた、とつぜん労働歌に変わっていたに違いないのである。何故だろうか? もちろん、わからなかった。わからないから、とつぜんなのだ。なにしろ、わたしが知らないうちにとつぜん何かが終ったのであり、そして今度は早くも、わたしが知らないうちにとつぜん何かがはじまっていたのである。     (『挟み撃ち』 後藤明生)

ここの部分は読んでいて、いささか面食らう場面です。ほとんどストーリーの整合性を崩して、兄に対する告白というようなものに移り変わっています。「わたしが知らないうちに突然何かが終ったのであり、そして今度は早くも、わたしが知らないうちにとつぜん何かがはじまっていた」とあるのは、無論、太平洋戦争時の日本の終戦のことです。

この小説の主人公は朝鮮で敗戦の現実を知った過去を持っているのです。小さい頃は兵隊になることを夢見た軍国少年でした。彼は戦前/戦後という切断の曖昧さで、揺れ動いているような幼年時代を持っています。そして今もそうです。そもそも自らの「根拠」が脱線なわけです。八月十五日が過ぎたら、昨日まで正義だったはずの戦争が悪となっていた。彼にはその帰属するべき、故郷の確かな時代的感覚など持ち合わせていません。彼ができるのは脱線を重ねることしかなかったわけです。全ては〝突然〟であり、全ては〝謎のまま〟なのです。

 日本の敗戦がもたらしたブラックホール

後藤明生は「内向の世代」と称されて、古井由吉阿部昭などと一緒に登場してきて、文学的方法意識については武田泰淳小島信夫の後を継ぐ「楕円思想の作家」というのが、文学史的には一般の意味付けのようです。
とにかくこの『挟み撃ち』はよい小説で、1970年代に隆盛した「近代小説批判」とか「ポストモダン」とかいわれる作家や作品群を俯瞰するとき、その中でもとりわけユニークで、優れているんじゃないかなと、僕は思います。後藤明生はそういう作家性のひとりと目されています。
直線的に考えられがちな僕たちの歴史観が一切否定されているところが、後藤明生ないしはこの『挟み撃ち』という小説の面白さです。いかに迂回、破綻、交錯、停滞などの、捕らえることが不可能な、不可思議なドラマによって、僕たちの「歴史」や「人生」というものが、実はもたらされた所産であるのか。

要するにこの小説に描かれた世界観とは、内向への意識(成長する感覚のない停滞意識)によってもたらされた思考で、「戦前」の一直線的な成長的意識に支えられた「近代」という志向が、その主人公が目指す〝失われた旧陸軍の外套〟によって、「戦前」の遺産そのものの象徴であるように、「戦後」の停滞のブラックホールへと、吸収されたように描かれてあるのです。
脱線からはじまり脱線したまま終わるこの小説に、最終的に果たしてなにが訪れたのかというなら、ゴーゴリのような小説を書きたいと切に願ったその主人公は、まったくそんな思惑など達成できませんし、文豪はもちろん、相変わらず平凡な人間のまま終わり、外套を捜し当てることもできません。しかし、この『挟み撃ち』という小説は成立したのです。そしてこれを読んだ読者もひとつの世界を潜り抜けたことは確かなのです。

余りに平凡な、余りに退屈な私たちの〝日常〟というものが、実に偶然の所産で、かなり〝劇的なもの〟であること。〝奇跡的なもの〟であることが、ここには書かれてあります。

 ポストモダン小説の金字塔

垂直的な成長概念を否定する楕円的な後藤明生の運動の記述は、先行者小島信夫に確かに似ています。ただ小島信夫が「中心」の象徴である「リアリズム」の整合を崩すことにその方法を貫徹していったのに対し、後藤明生の場合はアイデンティティ(小説の根拠=自らの根拠)そのものを問う小説になっていることが特徴的だと思います。そこにはある種の奥深い〝歴史性〟が絡んでいます。
偶然の人生は平凡であるがゆえ、発見されていることはとても重要なことです。それは〝発見〟されたゆえ、〝平凡〟だともいえるわけです。後藤明生という作家はそのことを強く実感して、それを〝外套探索〟というアイデンティティ探求の枠組みを借りることで、確認しようとしたのが、この小説だといえます。

『挟み撃ち』を読んでおけば、ほかのポストモダンとかいわれるその手の小説読む必要ないんじゃないかなと、そのくらいいい小説だと僕は思うんです。この小説は批評的側面だけじゃなし、中盤の告白の場面など胸にジーンときて、実に感動的でもあるわけです。

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