南瓜とマヨネーズ 魚喃キリコ

  ただ ただ 泣きたくなるような衝動
目の前にいるハギオへの 泣きたくなるような衝動だけ
(『南瓜とマヨネーズ』 魚喃キリコ)

魚喃キリコは主に1990年代後半から00年代初期にかけて活躍した女性漫画家です。ぼくが彼女の作品をどうやって知ったのか、まったく覚えていません。とにかく目に入った瞬間、その絵柄に惚れこんでしまって、貪るように刊行されていた全作品を購入して読んだことだけを鮮明に覚えています。しばらくその熱は胸から去らず、好きな作家は? と友達に聞かれたら、「カフカ漱石と……あと魚喃キリコかな」と答えるくらいはまっていました。

00年代後半に入ると、刊行数が減っていき、2010年代に入ると、作品刊行はぱったり途絶えてしまいます。ぼくが彼女の作品に触れたのがその頃だったので、非常に残念だった想い出があります。でも以下に記したような対談の内容を見る限り、マンガを描くことを辞めてしまったわけではないようなので、彼女の作品を読めることを、これからも信じています。

natalie.mu

作品リストをあげておきます。

『Water.』(1996年4月、青林堂) 初期短編集です。1998年にマガジンハウスから再刊行。
『blue』(1997年4月、マガジンハウス) 初の長編作品です。高校生時代に、魚喃さんが実際に体験した出来事が素材となっていて、これを描くことが漫画家になる目的だった、と後に彼女は語っているほどの著者自身にとっても大事な作品といってよいです。安藤尋監督により後に映画化。
『痛々しいラヴ』(1997年8月、マガジンハウス)短篇集です。
『ハルチン』(1998年3月、マガジンハウス) 雑誌『Hanako』で連載されたもの。カラー。高野文子の『るきさん』をかなり意識した作品集だと思えます。
『南瓜とマヨネーズ』(1999年10月、宝島社)第二長編。ちなみに今回レビューするのは、この作品です。
『strawberry shortcakes』(2002年12月、祥伝社) 雑誌『FEEL YOUNG』で連載されたもの。四人の女性を主人公にした群像劇の長編です。後に矢崎仁司監督により映画化。

『短編集』(2003年2月、飛鳥新社)タイトルどおり短篇集です。
『15』(共著、2004年1月、青幻舎)写真・小説・イラスト・マンガによる、素人の15歳の少女たちを描いたもの。共著です。
『キャンディーの色は赤。』(2007年7月、祥伝社) 久しぶりに出版された短篇集です。
『東京の男の子』(2008年3月、太田出版安彦麻理絵大久保ニューらとの共著。描き下ろしなども入ったトーク本です。
『ハルチン1・2』(2008年7月、祥伝社)『ハルチン』の続編の刊行。PARTⅠ同じくカラー。雑誌『Hanako』で連載されたもの。
『ちいさなスージー』(2009年4月、祥伝社) ナナナンキリコ名義のぬりえ絵本です。
『僕はひとりで夜がひろがる 立原道造詩集』(2010年4月、パルコエンタテインメント事業部) 立原道造詩集の挿絵を、魚喃さんが描いています。

こうしてみると、魚喃キリコはぜんぶで14冊くらいは著作があるかと思いますが、純粋な漫画作品としては10冊満たないといえて、長編は3冊しかありません。代表作はたぶん『blue』と『南瓜とマヨネーズ』でしょう。短篇にも優れたものが多いので、この辺りは個人の好みが分れるかもしれませんが、僕的には、ひとつ選べといわれたら『南瓜とマヨネーズ』(1999)が最強です。理由は単純で、自分の境遇と似たものが作品にあって、シンパシーを覚えずにいられないからです。

『南瓜とマヨネーズ』のストーリー

これ、どういう作品か、というと、最初に引用した「ただ ただ 泣きたくなるような衝動 目の前にいるハギオへの 泣きたくなるような衝動だけ」という主人公のつぶやきが、作品中出てくるのですが、この漫画のテーマは、もうこの言葉に凝縮されているといっていいでしょう。

主人公の洋服屋で働く土田は、せいちゃんというミュージシャンの男の子と同棲しています。たぶん住んでいる場所は都内のどこか。アパート暮らしで、実家からの仕送りもなさそうで、生活はあまり豊かなようには見えません。せいちゃんは元バンドマンでミュージシャンを目指していたのですが、今はすっかりやる気を失って、いわゆる土田のヒモになって、なにもせず部屋でごろごろしています。――魚喃キリコが描く漫画には、よくこういうなにもせずに部屋でごろごろしている男の子が描かれるのですが、90年代的なモラトリアムの特質性というよりは、これは明らかに魚喃キリコという著者の特質性だと僕は思っています――土田の経済力だけでなんとかなるはずもなく、ガスが止められたり、そもそもこんな生活がいいものであるはずがなく、互いにいいあいになってしまうことも多くなります。決定的なことが起ります。土田がせいちゃんとの生活のために新しくはじめた飲み屋のバイトで知り合った中年の男性に体を売るのです。それはこんなふうに描写されています。(字が小さくて読みづらいかもしれません、すみません)

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土田は「せいちゃんとの生活のため」と繰り返しいいます。しかし、読んでいると、どうもその心境には納得がいかないものが、読者には読みとれてくる。「せいちゃんがハギオだったらよかったのに、そうしたらなんだってしてあげられるのに」とつぶやく台詞が出てきます。実は土田には昔付き合っていた男がいて、実はその昔の男のことを忘れられず、今も思っているのです。そしてせいちゃんを裏切って、偶然再会した土田はハギオとまた関係を持っていってしまいます。

南瓜とマヨネーズ (FEEL COMICS)

南瓜とマヨネーズ (FEEL COMICS)

まあ、こんなふうにストーリーを抜き書きすると、とんでもない堕落した主人公だし、ヒモの男のほうも男のほうでだらしないし、そのハギオという男もなんてやつだ――飲み代もホテル代も土田に支払わせている――、ととにかく皆が好き勝手なエゴ丸出しで、見境ない感じで、読んでいて気持ち悪い、と思う読者もいるかもしれませんが、なぜ作者がこういう作品を描いたのかということを一考することは、無駄なことではないでしょう。作品とはそういうものです。これはあくまで私見ですが、実際魚喃キリコという作者は、この漫画に描かれたような経験をされてきた人なのだと思います。彼女はありのままを描く私小説漫画作家ではありませんが、モチーフはだいたい自身の体験から拝借していることは間違いありません。

そのため描かれた世界は狭く、部屋の中や――わたしたちにはこの部屋しか帰るところがない、という台詞が『南瓜』には出てきます。――、故郷の町や、とにかく狭い環境、一定の人間関係の中に物語が描かれることが多いです。この『南瓜とマヨネーズ』という作品では、昔の男を忘れられない女性が登場し、現在の男を裏切って、関係をつづける物語が描かれるわけですが、ここに読みとられるべきこととは、そこに嘘偽りがなにひとつない、という彼らの性格描写に尽きると僕は思います。

ゆえに、彼らの誰もうまくいきませんし、結果は書かれていなくても、自分の心情を優先する彼らが後に幸福になるわけがありません。しかし、それだからこそ立ち上ってくるものがあって、それはなにかといったら、ピュア、といってよい人間の最も胸の真ん中にあるエモーショナルです。それは「痛み」と同語だといってよいものです。

魚喃キリコという漫画家の存在

魚喃キリコは1990年代半ば頃から活躍し、凄く90年代的な匂いがあって、「女の時代になった」「新しい女性像」というのは、昔からある紋切型のセリフですけれど、実際その頃から日本では新しい女性像が生まれてきたんじゃないかな、と僕は思っています。

要は、男女の関係とは、女性側からも求めるものだ、ということにその頃からなったのであって、それはもちろん肉体関係も含みます。そのふた昔前くらいまでは、「セックス」というのはバイオレンスと共に用いられるものが多かった印象で、それはきっと「性」がまだ男性側から見られた枠組みだったからでしょう。1980年代の日本はバブル期であり、消費=セックスと、「性」が記号的に扱われるようになって、1990年代になったときに、まさしく「性」というのは、男性側からではなく、女性側からの価値観へと変質した、少なくともかなり増した感じがします。

「恋愛難民」という言葉が現代あるみたいですが、今や女性が男性を選ぶことは当然の事態となっています。以前「性」はあくまで男性的視点によってイメージされたもので、女性側から語られるものは、プラトニックなものがほとんどでした。しかし、次第にそこに「性」を資本主義になぞらえた岡崎京子のような漫画家が現れ、より赤裸々に女性側からの「性衝動」を訴える作品を描いた、魚喃キリコのような漫画家が現れてきたわけです。これは「戦後日本」の豊かさが、まさにそれゆえに「退廃」へと移ろった時代性を刻印したものといえるでしょう。

女性にだって性衝動はある。好きな人に抱かれたいという気持ちがある。とりわけこの魚喃キリコの代表作である、「彼のためならなんでもする」と主人公に吐かせた『南瓜とマヨネーズ』は、90年代という時代を象徴する衝撃的な作品だったといってよいと思います。

魚喃キリコの描写とモノローグについて

彼女の漫画の技術面についても述べておきます。とにかく彼女の漫画は、ページを開くだけで、異常な吸引力があるのが特徴なんですけれど、僕がたちまち虜になってしまったのは、やはりそのなんともいえない絵の魅力にありました。魚喃さんのは切り絵っぽいというか、静止しているというか、これだけたくさんコマを黒く塗りつぶしていく漫画って、類例がないと思います。

なぜそのような方法をとったか。先ほど彼女の作品は「私漫画」的だというようなことを指摘しましたが、たぶんそれと通底するものがあって、それはモノローグを強調するためです。彼女の作品は〝詩的〟だとよくいわれるんですけど、たとえば会話のシーンがバタバタってあると、突然風景の沈黙した、まるで小津安二郎の空ショットにも似た、無人の絵がつづきます。先ほど引用した場面が象徴的ですが、情動の激しいところは敢えて描かれておらず、モノローグの文章がひたすら綴られていく。さらに会話中の場面でも、バックショットを捕えたものが多い。こっちはまるで成瀬巳喜男みたいです。

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普通なら激情する場面は強烈に描きたいところを、彼女は敢えて描かない。なぜなら描けないからです。引きの描き方をし、寡黙に情景を捕えます。売春する場面のセックスシーンは描かずに、そのあとに扉の前に佇んでるコマ、シャワーを浴びているコマ、を描くことで、狂おしさがいっそう引き立つような工夫がされている。このような簡潔なスタイルがどこからの影響なのか僕にはわからないですけれど、この技法は彼女の作品ではどれも一貫しています。

そもそも魚喃キリコの作品はストーリーらしきものも不在だといってよいのですが、女性作家特有の関係性らしきものを描く事柄も不在です。つまり「本筋」の部分は描かれておらず、ひたすら主人公の内面感情を吐露させることに作者の筆は集中しており、それが至るのは、行き場のない絶望です。つまり、モノローグ(死に至る病)、というものの本質を描こうとするのが、魚喃キリコという漫画家の特質性だと僕は思います。

『南瓜』においては、なぜ土田がそれほどハギオを好きなのか、説明がぜんぜん描かれておらず、回想シーンもまったくありません。魚喃さんの作品は文学っぽいんですが、人物の内省意識は限りなく描かれていない。すべては現在形であり、過去形として内面化される心象は排除されている。そういう意味で、彼女の作品が文学的だ、という意見にぼくは批判的です。彼女の作品には絵で表現する力がある。だから彼女の作品は明らかに漫画であり、それは寡黙だからこそ、せつないのです。

 わたしたちの この ありふれた平凡は
本当はとてもこわれやすくて
なくさないことは奇跡
(『南瓜とマヨネーズ』 魚喃キリコ)

さらに魚喃キリコの作品が素晴らしいのは、世間によって作られたある種の規範、「聖域」といっていいかもしれませんけれど、それを侵犯した作品として起立しているからだと僕には思えてならないです。性の濫費を描いたのではなく、それは女性の自立と強く関係があるものであり、主人公たちの愛情の縺れた行き場のない絶望的なモノローグは、基本的にデス・コミュニケーションで、そこに「共通理解」は存在しません。同性同士の関係はたいていにらみ合いになっていて、そうでなければ片思いで、彼女たちが性的なものに対してオープンなのは、それがコミュニケーションの ツールとして避けられないものとして認識されているからです。

愛する人のために子供をおろしてあげた、といいかたがとにかく衝撃で、僕はこの『南瓜とマヨネーズ』は本当に繰り返し読んだ作品のひとつです。初心だった僕はちょっと人生変わっちゃったって感じがありました。

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『BLUE』の海外版ですかね。この漫画も傑作です。

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