八日目の蝉 角田光代

角田光代は今や多くの書籍が映画化され、誰もが知る売れっ子作家ですが、ある時期を境に決定的に変わった、とみられる作品があり ます。それが直木賞候補作になり、後に小泉今日子主演で映画化もされた2002年に発表された『空中庭園』です。これはあるひとつの家族の秘められた内情 を、長女や弟や父親や、家族内だけではない人物の関係も取り入れながら、それぞれの六つ の独立した視点から描いた、少し変則的な連作短編集です。この小説の特異さは、心理や内面というより、ある種の人間の「生々しさ」としかいいようがない生 活感が浮き彫 りにされていた点で、角田光代という作家が、ちょっとそこいらとは違う、と世間一般に認知させた「転機」の作品だったように思えます。

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

さらに彼女がはっきりと傑出した作家なのだと太鼓判を押されたのが、直木賞を受賞した『対岸の彼女』(2004)でしょう。これを読んで、合わないなー、と思われた方は 角田小説を手に取るのはやめたほうが賢明だと思います。それくらい傑作だからです。
この作品に よって、彼女が先の『空中庭園』の生々しい人間模様描写及び、「純文学」の狭い範囲に留まらない――実際に彼女は世界各地を放浪した経験を 持っていますが――広い「大衆性」に強くアピールする側面も見せはじめた作家として、今に通じる現代作家になったといえると思います。
けれど も 角田 光代の凄味は、この程度じゃありませんでした。直木賞受賞後の三年後に書かれた『八日目の蝉』(2007)において、彼女は紛れもなく日本の現代文学を代 表する一流の小説家となったことは疑いの余地がありません。これは映画化もされ、ドラマ化もされ、120万部以上のベストセラーとなり、『対岸の彼女』以 上に幅広く読 まれた作品になりましたが、本当に奇跡的な小説であるので、ぼくはこの作品をレビューしたいと思います。実際ぼくの中でもこの作品が角田光代で最高傑作と いう位置づけです。

『八日目の蝉』のストーリー・1章

  コートのボタンを外し、赤ん坊をくるむようにして抱き、私はがむしゃらに走った。どこを走っているんだかまったくわからないくせに、駅に向かえばあの女と 出くわす可能性があると頭の隅では冷静に考えていて、足は勝手に、駅とは反対の方向へと向かう。道路標識に甲州街道という文字が見え、白い矢印が指す方角 へと足を急がせる。向こうからやってくるタクシーが空車であると読みとるやいなや、反射的に手を挙げていた。
後部座席に乗りこんでから、どこへいくあてもないことに気づく。フロントミラーに、こちらをうかがう運転手の目だけが映っている。
小金井公園まで」
私は言った。タクシーは走り出す。振り向くと、見知らぬ町が静かに遠ざかっていく。コートをかぶせられた赤ん坊は、ちいさくぐずりだす。おおよしよし、い い子だね。ひとりでそんな言葉が口をついて出て、そのことに驚く。おおよしよし、いい子だね。もう一度くりかえし、そっと背中を撫でる。
道は 混 んでいて、タクシーはぴたりと停まって動かない。ふんふんと鼻を鳴らしむずかっていた赤ん坊は、親指をくわえうとうととまどろみはじめる。ふと我に返った ように目を開き、泣こうとするように細い声をあげるが、すぐさまとろんとした目が白目になる。いろんな考えが次々と浮かぶ。おむつを買わなきゃ。ミルクを 買わなきゃ。今日眠る場所を決めなきゃ。それらは思い浮かぶだけで、考えがまとまらないうちに、次々と新しい考えにとってかわる。
何をすべき か。私は今、何をすべきか。必死に考えれば考えるほど、なぜか眠気が襲う。赤ん坊のようにうつらうつらとし、鼻先をくすぐるやわらかい感触にはっと目を見 開き、乳のにおいのする赤ん坊を抱きしめるということを、幾度となくくりかえした。  (『八日目の蝉』  角田光代)

不倫相手の男の、まだ生後六ヶ月の娘を誘拐する中年女性の希和子が、この小説の「1章」における主人公です。その行動が描かれています。最初友人宅へ嘘を いって身を寄せ、思わず盗み去った他人の娘を「薫」と名づけ、彼女はその子を自分の娘として育てようとします。これは実際にあった出来事を角田光代が作品 化したものです。
やがて新聞に自分の名前が載っていることを発見すると、希和子は東京から離れて名古屋へ向かいます。ひょんなことで出会った 老 婆の宅へ身を寄せ、そこでも正体がばれそうになると、今度は或る宗教団体の一員となって世間から身を潜めようとします。薫はそこで多くの歳月を費やし育つ ことになるのですが、つまり希和子 を母親と明確に認識していくことになります。
しかし、そこにも追っ手が現れます。気に病みだした希和子 は、 今度は岡山へ逃走します。 瀬戸内海の或る小さな島のホテルの住み込みの仕事を見つけ暮らします。まったく別人になり済まして、他人の子を自分の娘として育てつづけた希和子。しか し、その逃亡劇にも終幕が訪れます。結局フェリーに乗って瀬戸内海を離れようとしたところで、彼女はつかまってしまうことになり、裁かれることにな るのです。逃亡生活はなんと四年にも渡っていました。

ここまでが1章です。ページ数では全体のほぼ2/3が割かれてあり、この前半は、犯 人である希 和子の女性の日記体形式の一人称で描かれています。しかし、この長いストーリーは「序章」という伏線であるにすぎません。希和子はどうな るのか。そのサスペンスのはらはら感によって、よどみなく読め、切迫した言葉のリズムが強く印象を与え、ページをめくる指がとまらないです。しかし、小説 の矛先は子供を盗んだ女性がどうなるのか、ということに向かうのではなく、このことで作者が何を読者に訴えかけようとしているのかという〝謎〟に焦点が向 かっていきます。

2章になると、時は10年ほど経過しており、娘の視点、つまりかつて「薫」と呼ばれた、本当は恵理菜という彼女から、「彼女」(希和子)のことが想起される構成になっています。

『八日目の蝉』ストーリー・2章

  アパートを出て自転車にまたがる。地蔵坂を過ぎて大久保通りを走り、神楽坂を下った路地の奥に私のバイト先はある。むんと煮詰まったような熱気が膜のよ うに私を覆っていて、ペダルをいきおいよく漕いでもその膜を突き破ることができない。十分ほどの道のりだけれど、バイト先にたどり着くころにはTシャツが 背中にぺたりとはりつく。大学は夏休みなのに。学生風の男女が夢中で何か話しながら歩いている。
神楽坂にある居酒屋でのバイトは、今年、大学 二年に進学してからはじめた。火曜日から土曜日の、五時から十二時。夏休みのあいだは、月曜日から土曜日まで。時給は千百円。九時からは千三百円になる。 近くに大学が多いからか、アルバイトは学生が多い。ときどきバイト仲間で飲み会もやっているらしい。私は一度もいったことがない。みんな、つきあいが悪い とわかっているから、飲み会に私を誘うことはなくなった。  (『八日目の蝉』  角田光代)

あの事件から10年経ち、18歳になった恵理菜はひとり暮らしをして東京で大学生になっています。恵理菜は好きな人がいて、相手は妻帯者です。恵理菜は自 分がかつておぞ ましいほど憎んだ「あの女」(希和子)と同じ人生をなぞるかのように生きているのじゃないか、とふっと気付きます。なぜ自分は不倫などしているのか。戸惑 い、悩みな がらも、彼女はその解答を得ることができません。
恵理菜が不倫をするのは、自分にとっての「あの過去」の意味を実は知りたいため で あるという屈折した心理が密かに働いているためで、ゆえに小説は過 去へ過去へと少しずつ戻っていく構成になっていきます。以前あの宗教団体でいっしょに暮らしていた女性が訪ねて来ます。過去の事件の報告がなされます。忘 れ たと思っていた出来事は忘れがたいものであり、彼女はその「真実」を知らずには前へ進めないことを自覚するに至ります。

とうとう恵理菜は自分の家に戻ってきたにも関わらず、家があの事件をきっかけにして崩壊してしまったことも自覚します。しかし、あの事件が起こっていなかったとしても、家はこんなふうだったのではないか……と恵理菜は思ったりもするのです。

角田光代系譜

角田光代という作家は1990年に、今はもう廃刊した文芸誌の「海燕」からデビューしています――実はその前にもコバルト・ノベル大賞を受賞してジュニア 小説としてデビューしているのですが――。同時期受賞であった松村栄子はすぐに芥川賞候補となり華々しくスポットライトを浴びたのに対し、角田光代は苦労 派だったといってよいです。
評価的にも、商業的にも伸び悩んだ時期がずっとあり、決して悪い小説を書いてはいなかったのですが、ぼくはデビュー作からずっと彼女の作品を後追いで読ん でいきましたが、実際初期の『まどろむ夜のUFO』(1996)などは、期待される新人に与えられる野間文芸新人賞を受賞 しており、よい作品ですし、文壇が注目していた若手作家だったのは確実でした。しかし、作者自身この頃創作に逡巡があったことをはっきりと認めています。 彼女は歳月を積み重ねるほど、そうして迷いながら、文学的厚みを増していった、いまどき珍しい本格的な小説家だといえると思います。
実際に 『対 岸の彼女』や『八日目の蝉』や『紙の月』(2012)らの、彼女を有名にした代表作品を読むと、色んな意味で角田光代という作家が成し遂げてきた力量の凄 さがわかるのです。角田文学は、平明にするとその重さは軽くなってしまうのじゃないかという危惧を、極めて日常的な視点で独特な生臭いリアリズムで追求し て描くことにおいて喪失させ、現代に新しい一面を開拓して独自の文学を作った、と僕は思います。あまりに「文学的」な作品にも関わらず、同時に幅広い大衆 性に訴えかける求心力を作品は備えており、人間の深部を突いてくる特質を持っているわけです。

『八日目の蝉』が描いたもの

この『八日目の蝉』という作品の追求しているものとはなにか、簡単にはいえないのですが、他人とは違う人生をもってしまった人間がたどり着く、あらゆる現 実的な形 の「意味」の剥ぎとられた、生身の人間の原型のような世界観といったようなものが描かれている、と抽象的ですが、いってよいと思います。実際にあった出来 事を素材とし、クライムサスペンスの方式を取り 入れることによって、「人間」と「世界」の存在性というようなものに取り組んだこの作品は、とりわけ2章における主人公の恵理菜のキャラクターの描き方に おいて、これまでにない現代文学を起立させています。

父親 の 不倫相手の女に、ある日突然誘拐され、その女を実の母親だと思って生後半年のそのときから四年間過ごす、という異常な人生を過去に持ちながら、そ の苦悩に垂直に降りていく素振りを、作者は隠しません。その他人とは違う「生」を持ってしまった彼女は、あるときはを憎み、あるときは忘却しようと、人生 をもが き、そこから離れられない自らの底なしの感 情に気づくわけですが、彼女の苦悩する「逡巡」は、逃亡劇を犯した希和子の地獄の「逡巡」と実は同じものであり、彼女ら相対する被害者と加害者であるはず の両者は、まったく異質 なところで、その思いを重ね合わせるのです。

恵理菜は小さい頃に帰りたいと思っていた「禁忌」としてのあの島 へ、最後は向かうことになりま す。こうではなかったかもしれない、本 当はこうであったかもしれない、という人生の迷路と葛藤を潜り抜けた果ての、それは「帰結」です。そしてそれは「結末」であると同時に「出発」なのです。 なぜなら彼女のお腹にはそのとき新しい生命が宿っているのです。不倫相手とのあいだにできた子です。

もちろんそれは間違った人生かもし れません。しかし、そのときどうであれすべては「等価」である、という自身と他人とに対する人生の肯定を、ここで彼 女は圧倒的な自然の恵みの中で、啓示を与えられるように導かれることになります。太陽と海、潮風と大地の輝きは、生まれてくる生命の誕生を、どういうもの であれ祝福し、それは本質的な人間 の生というものと結びついていくことを、彼女に教えるのです。

 角田文学の生の重さと希望

ラストは再び希和子の視点になってこんな文章が書かれています。

  希和子は両手を思い切り開いて、指のあいだの青空を眺める。青空をつかむようにぎゅっと手を握りしめると、それをコートのポケットにつっこみ、スーパー マーケットに向けて歩きだす。歩きながら希和子はふりかえる。遠ざかるフェリーが見える。さっきフェリーに乗りこんでいった見知らぬ妊婦とその姉が、窓に 額をつけて海を眺めている姿が思い浮かんだ。いつか自分も海をわたることができるだろうか。
海は陽射しを受けて、海面をちかちかと瞬かせている。茶化すみたいに、認めるみたいに、なぐさめるみたいに、許すみたいに、海面で光は躍っている。   (『八日目の蝉』 角田光代)

この小説をブログの短いレビューで簡単に説明することは、なかなか容易ではありません。それくらい人間の深いところに、この小説は達しています。

僕がこの小説を読んで凄く思ったのは、それはあれ ふれた日常にこそ普遍性があるという信念の賜物が、こういう物語を生み出したのだろうという、なによりそのことです。角田光代という作家は、いろんな方法 意識で、いろんな角度から家族や恋愛を描く人ですけど、基本的にリアリストである部分は変わらないと思います。これは明らかに重みのある歳月の積み重ねと いう人間の年輪がもたらした文学的所産で、角田光代という作家の凄味は、小説とは年をとった経験値から描くべきものだと改めて思わせるものがあり、普通の 人間たちの「苦労」や「努力」に新しい光を与えていると感じます。また小説でしか描けないことを確かに描いています。そしてまた小説の面白さというものも そこに描こうとしています。彼女はこの『八日目の蝉』において、繰り返しますが、現代文学の旗手となったのは疑いないです。

ときおり僕はこの小説を読み返します。不幸にどっぷり浸かり込んだ悲惨な作品であるにも関わらず、元気になります。なぜならこの小説が希望に溢れているからです。

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