生ける屍の死 山口雅也

ぼくは正直いってほとんどミステリーを読まないのですが、珍しくミステリー本、それも本格といわれる推理小説のレビューです。

いわゆる探偵が出てきて謎を解く、みたいなやつですね。クライムサスペンス系や、レイモンド・チャンドラーなんかは、すごく文学しているというか、人間の深部に迫るものがあったりするので読みますけど、一通り教養程度に読んでいるだけで詳しくないです。ただ国内の現代作家で熱愛しているミステリー作家がふたりだけいて、ひとりが東野圭吾で、もうひとりが今回レビューする山口雅也なんです。

ミステリー作家は知的な方法論を持って作品に取り組む方が多いですが、ぼくから見ると、単なる「ミステリー」を超えた形式を借りた形で「文学」を問うている作品を書いていると強く思うのが、東野さんと、山口さんだからです。両極ですけど。あと故連城三紀彦さん、奥泉光さんも好きです。

東野圭吾さんは有名作家なんで、ぼくのブログの趣旨からいって、レビュー必要ないと思ってますけど。

山口さんは意外とミステリーファンでも敬遠されている現代作家のひとりかもしれない、と危惧していて、やっぱりこの本は、今更ですけど、紹介すべきだと強く思ってやまないものがあります。その前に、ざっとミステリーとはなにか簡単な歴史的概略からいきます。山口さんの小説を説明する場合、どうしても必要だからです。

生ける屍の死 (創元推理文庫)

生ける屍の死 (創元推理文庫)

 ミステリー小説について

いわゆるミステリー小説というものですけど、その創始者はイギリスの文学者エドガー・アラン・ポオ(1809-1849)といわれています。最初に書かれたミステリー作品が、彼の「モルグ街の殺人事件」であるらしく、これってミステリー? って読まれた方は皆思うかもしれません。まあ、真相がなんであれ、ポオはそれまでの霊感や恩寵で小説は書くものではなく、知的に人工的に書くものだとして、小説に極めて自意識を先鋭化させた考えを持ちこんだんですね。要するに小説とは「虚構」である、ということを強調したわけです。小説にとても形式的な光をあてたんです。
日本ではポオの名前を文字って名付けた江戸川乱歩がミステリーを世間に認知させた作家として有名だと思います。当時は谷崎潤一郎などもミステリーを書いており、誰が最初なのかはあいまいで、そもそも誰が立役者なのかはあまり意味がないように思います。ただ、日本の場合は決定的な人が現れて、国内ミステリーはその土壌に未だに乗っかっている、というのがぼくの考えです。

松本清張です。いわゆる彼が書いた「社会派」なる呼称で呼ばれたミステリーは、本格とは違い、そっちが主流となっていった史実が日本にはあり、本当はミステリーって、つまり「謎解き」や「探偵/刑事」が作品内に登場して推理していくものが王道なものなんですけど、日本ではそれら「本格派」といわれるものは、たとえばエンタメの最大の賞である直木賞においても、実際評判が悪かったりするわけです。「人間が描けてない、形式や、謎解きに終始している」とか。清張が重要視したのは、そこから浮かび上がる社会の背後に隠された人間性にあって、ミステリーはいわば道具立てとしてしか用いられていないような感じがあります。もちろんそれに相対した作家も現れたわけで、たとえば横溝正史などの作家がそうですが、以降、何度かそのような大衆に支持される「社会派」に対して「本格」と呼ばれる王道のミステリーが台頭し、1980年代に「第三の波」といわれる「新本格派」と呼ばれる人たちが多く登場してくることになった、その中のひとりが今回レビューする山口雅也である、というわけです。

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彼の小説ですが、ポオはもちろん、1920年代のミステリー黄金期といわれる、アガサ・クリスティー(1890 – 1976)、ディクスン・カー(1906 – 1977)、エラリー・クイーン(フレデリック・ダネイ 1905 – 1982 マンフレット・ベニントン・リー1905 – 1971)、それらの「本格推理」の強い影響下で書かれた性格がうかがわれます。「本格推理」とは、先ほどいいましたように、トリックや、謎解きを基本として、刑事や探偵が出てきてそれを解き明かす、という形式に則っています。ことさら山口雅也の作風は、それら師匠筋の作家たちの意志を受け継いで、マザーグースをモチーフに作品を書いたりとか、知的で、人工的で、小説とは何か、を問うている小説といってよいとぼくは思っています。

さらに、ぼくが山口雅也という作家を熱愛してやまないもうひとつ側面がありまして、彼の作品が非常に「B級的」な魅力に溢れている、という点があるんですね。

『生ける屍の詩』のストーリー

アメリカのニュー・イングランドの或る町で遺産相続を引きがねとしたひとつの事件が起こります。『生ける屍の死』という、この長い小説の事件背景にあるのは、「死んだはずの人間が次々甦る」というオカルティックな珍事態です。それと重なりながら、事件はさらに奇妙な迷宮の中に、どんどん入り込んでいきます。

謎はなかなか解決されません。「死んだ人間が蘇る」という設定そのものが、解き明かすことができる類のものなのかどうか、と読者はまあ思うわけです。さらに、この小説において、ストーリー上決定的に奇妙なことが、その後に起ってしまうのです。それがこの小説の「鍵」です。
はっきりいってしまいますが。事件を追う主人公の探偵役はグリンというパンク小僧なんですけど、彼が小説半ばで一度死んでしまうんです。探偵役の主人公が死んでしまう。それで事件が解決されるはずなどありません。作品はこれからどうなってしまうのか。

まあ、こんなふうに内容を抜き書きすると、余りに荒唐無稽で何が何だか、わからないと思いますが、実際この作品はそんなアクロバティックな設定を用いることで、現代日本の小説が持ち合わせていない、ありえない側面から深く人間を問い詰めた文学性を成立させているんです。
「死者」「生者」両者入り乱れての、事件を追う追われる者たちの混乱した一族の殺人事件がこの小説の内実です。一応ミステリーなので、これ以上ストーリーを詳細には語りませんけど、作者がなにゆえこんな不可解な物語を語ったのか。ここでぼくが解読していきたいものは、この作品の底流にある創作の秘儀のようなものです。

この『生ける屍の死』という小説の意図

山口雅也は1989年に発表されたこの『生ける屍の詩』がデビュー作です。400字詰めの原稿用紙でたぶん1000枚強の長さはあります。デビュー作でこれだけの長 編をものにするのは並大抵のことじゃないと思います。あくまでこれはぼくの「私見」ですが、結局山口雅也という作家は、その キャリアにおいて、このデビュー作超えた作品を書いていないと思っています。その言動が彼のブランドを少しも貶めることにはならないとも思っています。それくらい、これ一作で、凡作が千本束になってかかっても敵わないほどの歴史的傑作を、彼がこの処女作で書いてしまったからにほかなりません。
これは「奇書」といってよいです。日本の三大アンチミステリーといわれている、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』(1934)、夢野久作の『ドグラ・マグラ』(1935)、中井英夫の『虚無への供物』(1964)と並び称される、そういう孤高のミステリー小説作品と並べてもいいかもしれません。
この作品の主題を端的にいってしまうなら、一つの様式(近代様式の雛型としての推理小説という)が危機(まさしく死)に陥る時、そこにおいてこそ可能となる方法論とはなにか、浮かび上がるものはなにか、ということが作品の底流にまずあり、従来の当然だとされていた「様式」をひっぺ返し、本来の可能性を生み出す、その作業の過程を小説化した性格を狙ったものが、この『生ける屍の死』の創作の最初にあったと思います。それがとにかく基本です。つまるところある種の「メタ小説」(小説に対する小説)なわけですが、そんな単純じみた様式さえ逸れていってしまうような性格をこの作品は持っており、その徹底的な「形式」へのこだわりにおいて、実験性と遊戯が巧みに盛り込まれ、ミステリーがミステリーでなければならない〝固有性〟を放っているわけです。

『生ける屍の死』に胚胎する文学性

内容に踏み込んで、もう少しこの小説について探っていきたいと思います。

『生ける屍の死』というこのミステリー小説が、極めて逆 説的な小説だということはとりあえず理解しておく必要はあると、先にいいました。「生者」が「死者」の謎を一方的に解く、というのが通常のミステリーですが、これは 「死者」(つまりこの小説の形式に則っていえば、以前生きていた)側から「生者」の意味を解き明かしていく小説の性格を持っています。小説中、何者かに よって殺されてしまった死者が、「何でおれを殺したんだぁ?」と犯人を探索するという、そういう構成になっているわけです。

そしてこの小説の特色として考慮し なければならない重要なもうひとつの点がありまして、すでに読まれた方はわかると思いますが、この作品にはあらゆる過去の遺産(それも推理小 説に限りません、映画、ロック、歴史、哲学、精神分析、諸々)が、「20世紀文化の引用」として散りばめられています。作品はほとんど〝死骸〟と化したと いってもいい「近代/現代」の歴史意識を過去の遺産として引用/サンプリングし、それによってミステリーという「形式」そのものを問う構成になっています。犯人は誰 か、動機はなにか等の「謎解き」に読者を運び込んでゆく消耗品ミステリとは違い、古典的な淡々とした文章の流れの中に、人物やその背景のディテール を丹念に注ぎこみ、そこで死者/生者が巻き起こす壮大な物語を語っています。
これは作中劇だけに留まらない性格のもので、作品自体が「死骸」に よって全く架空に「生きたもの」(ニューイングランドの片田舎という一応の場所設定はありますが)とされた構造を持っているというわけです。つまり、すべてが死者の側、 「作者」の手によって人工的に構築された小説であるという特徴を、強烈に訴えています。

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一度死んだ主人公グリンは、やがて半死の状態で甦ることになります(未読なのに、ここまで読んできてしまった方はすみません、読む予定だ、という方はここでレビューを読むのぜひやめてください、ごめんなさい)。そしてすぐに自分を殺した犯人、その家で奇妙に起こっている「事件の真相」について本格的に探索を始めるに至ります。そして真相は実はとんでもないところにあった……ということが最終までやってきて、とうとう解き明かされることになります。犯人は誰か。真相はどこにあったのか。そもそもこの物語がこれほどまで混乱したのは何のせいだったのか。

この小説の伏線となっている下敷きは、読むと誰でもわかるように、キリスト教における「終末思想」なのは明白ですけど、「最後の審判」における、ひとつの歴史の終わりの時、神が再臨した〝キリスト(神の復活)〟と共にその審判を行う際、生者も死者も一同に集って、そこで罪のない者には再び生が与えられ、神に背くものには魂までも奪われて本当の死が訪れるわけです。ここでいう〝神=キリスト〟とは、いったい何者のことあるのか? ぼくらにそのような審判を下す強い力を振る舞う者とは、いったい何者であり、そしてそもそもなぜキリストは、その時再臨できたのか。彼が再臨した意味とは何だったのか。『生ける屍の死』は、『聖書』という大文字の物語が何を意味しているのか、最終的にはその本質に挑んだ小説といってよいとぼくは思います。

 内容だけじゃなく、技量もセンスも超一流

やっぱりこれ以上内容については、もう深く説明しないほうがいいと思いますが、とにかく強烈な小説なんです。この小説との出会いは、ぼくにとっては本当に半端じゃなく、ぼくがこの本を手にしたのは、たまたま偶然書店で見つけたのがきっかけで、タイトルに惹かれて、「生ける屍の死? えー、めっちゃ、カッケーじゃん」って感じで、ミステリーなんてぜんぜん読んだこともなかったし、興味もなかったのに読んでしまったわけですが、読後ひっくり返ってしまって、本当に驚いてしまいました。

それで興奮しまくってその後、友人たちに紹介しまくったわけですけど、「面白かった」と言ってくれる人は誰もいませんでした涙。やっぱり奇書なのか。だからこそいいたいわけです。これはミステリーにとどまらない、ミステリー好き以外の人が読んだほうが面白い小説なんじゃないかな、と、まさしく現代文学の歴史的傑作 である、と。

ぼくが持っている文庫本の紹介文が北村薫さんなんですけど、「これはミステリーの王道である」と、きっとこれは逆説的な意識でもって書かれたんだと思いますが、本来ミステリーなど読まないぼく にもそう確信してしまえるようなリアリティーがこの作品にはあったわけで、これは純文学/エンタメ小説/ミステリー等の区別関係なく、ここ数十年での国内の長編小説の間違いないベスト1の作品だと、少なくともぼくは思っているんです。これを超える現代小説はないです。(きっぱり)

とにかく文章が絶妙に上手いです。一部の隙もなく、テクニック的も恐ろしくずば抜けたものが あります。引用のセンスから、ユーモアの取り入れ方まで、エンターテインメントの技量からいっても最高得点でしょう。ただそのいささか真っ当過ぎる古典的香りのする淡々とした物語の進 み具合に、「一体この作品って何いいたいの?」と訝しい気持ちが沸き起こってしまうと、本を閉じてしまう可能性が非常に高い危険性があって、ちょっと推理小説でも読んでみよう、という読者は途中で挫折する可能性は大です。でも絶対面白いので、最後まで読んでみて欲しいです。

小説は第1部と第2部とに分かれています。第1部がもたもたして、まあちょっと長くて、今まで述べてきたように、一向に事件が解決を見ないし、なにがなんだかわからないし、挙句の果てには探偵役の主人公が死んじゃうわけで笑、その冗長さにおいて、読者をはぐらかすというより、拒んでいるといってもいい性格が確かに内在されていて、でも、この小説は、 「物語」のそのまさしく〝長い物語性〟にこそあるわけで、それは密接に「近代意識」に基づかれた〝小説とはなにか〟という問題とも、強烈に結びついています。ぼくはこれらのことを終盤に差し掛かるまで、作者の巧妙な意図の下でまったく気 づかなくて、この一見余りに真っ当過ぎる作品が何故そうなっているのか、とにかくこの小説はミステリー及び近代史、芸術、文学、人間、それらの本質を深く問うているのは、疑いないんです。

 小説のクライマックスがもたらす感動劇

最期に、ぼくがもっともこの小説で好きな場面を引用しておきます。この奇妙な殺人事件が解決し終えた後に主人公グリンが、ぽつりと漏らす科白が、終盤にあるんですけど、この長い小説をずっと読んできて、その部分に突き当たった時、ぼくは不覚にも涙が零れ落ちて、号泣してしまいました。小説を読んで泣いたのは初めてでした。

 この気まぐれな甦りの物語に意味はあったのか? 筋書きを書いたのは誰なのか? 全てを仕組んだのは、やっぱり神だったのか?
――いや、違うぞ、とグリンは思った。神なんかいないんだ。死者の甦りなんて、誰の意志でもない、ただの現象なんだろう。死者の甦りだけでなく、人間の通常の生や死にだって、完璧な理由やら意味やら誰かの意志やらを見出すことはできないじゃないか。
この奇妙な物語は神の筋書きによるものではない。要するに俺が書いた筋書きなのだ。甦る前までの人生の筋書きは、俺自身が書いたものではなかった。俺はただ世界の玉突きゲームに翻弄されていただけだった。だが、甦ってからの数日間は違っていた。俺は事件の解決をすることによって、この世界にささやかな楔を打ち込んだ。俺がそうしなければ、世界はいまあるものとは違ったものになっていただろう。――そう、今度は、俺自身がこの世界の筋書きを書いてやったんだ。

(『生ける屍の死』  山口雅也)

この〝でっち上げられた物語〟を自らの力で読み砕いていくと同時に朽ち果てていくパンクスのグリンは、走り去る車の中で、愛する恋人に向かって、この後さらにこういいます。
「人間は永遠の命を失った変わりに、大切なものを手に入れた」と。それは「個別性」だというんです。「だからこそ別々の個体同志のその者たちが、つまり自分たちみたいに、こうして惹かれあったり、愛し合ったりするのだ」と。そしてそれは、「『永遠』に等しいくらい意味のあることなんだ」というんです。

※               ※

ぼくたちのこの「世界」は、「死者」たちによって、実は形作られているものです。自己表現するといったって、「言葉」はぼくらが作ったものじゃないですし、誰もが親から必ず生まれてきて、すでに生まれた時点であらゆる関係性や歴史を背負わされています。でも、それを“更新”していくことは可能です。人生の本当の問題に気づくためには、人は一度死 ななければならない。自ら「生きる屍」であることを自覚し、その自分が本来当然のように思っていた自立した生身の人間などではなく、何者かによって支配され、突き動かされ、単にこの世界に偶然に生れ落ちた現象の一部にしか過ぎない存在だと気づいたとき、人ははじめてそこから「出発」し、真実を自分の経験によって積み上げていくことになるんじゃないか、ということが、この小説は強く訴えてくるものがあります。

人は生まれた時から死に向かって生きているのは自明です。「生」とはそれ自体で成立するものではな く、「死」によって始めて成立するものです。人は「死者」のその〝記憶〟(他者の死を借りることによって、自分の死にも気づく)を自らその体内に刻印する ことによって、初めて本来の〝生者〟(生きる屍)となることができるのかもしれない。『生ける屍の死』はとにかく、いろんなことを考えさせてくれる豊かな小説です。

小説中、パスカルの有名な言葉が引用されています。「人間は、死、悲惨、無 知をいやすことができなかったので、自己を幸福にするために、それらをあえて考えないように 工夫した」と。この『生ける屍の死』という画期的な小説は、その先にあるものさえ、ぼくらにはっきりと提示してきます。

人は本当に生きるとはなにかを知るためには、一度死ななければならない。

生とは限りあるものであり、誰もがその残酷な「真実」を、生きる最中に知らなければならない。そしてそのことに初めて気づいた時、人はその己の固有性に気づき、だからこそ孤独である自分を誰かと結びつけようとして、愛を知り、人生の尊さを知るのじゃないでしょうか。そのために小説などという存在、またミステリーなるものもまたこの世界に成立しているのじゃないか、とぼくは思えてならないんです。

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