愛の生活・森のメリュジーヌ 金井美恵子

金井美恵子の文壇への登場は1967年。彼女はそのときまだ19歳でした。大好きな石川淳に読んでもらいたくて、当時彼が選考委員を務めていた「太宰治賞」に応募したことが、彼女が文壇デビューするきっかけとなったのですが、すでにその処女作にして、彼女の文学的原石が十二分に炸裂していると思われます。レビューに関して、最新作にするか、初期の長編作である『岸辺のない海』(1974・1999/完本)にするか、いろいろ迷ったのですが、結局デビュー作である「愛の生活」が収録されたこの本をぼくはレビューすることにしました。

講談社文芸文庫では、ほかにも『ピクニック、その他の短篇』や、金井美恵子自選集が何冊か文庫で短篇については出版されていますが、この短篇集がお気に召されたら、古書になりますけど、『金井美恵子全短篇』が三冊で入手可能なので、それをお勧めします。それくらい金井美恵子の短編は絶品だからです。

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)

この文庫には金井美恵子がデビューの1967年から、12年後の1979年まで発表した代表的短編がちょうど10篇収められています。

とにかく処女作の「愛の生活」に出会った衝撃度は、ぼくにとっては半端なものじゃなかったわけでした。ぼくが金井美恵子という作家の作品を初めて読んだのは、先述した全集で、つまり、いつものパターンですが、彼女の作品は最初から読んでいったわけです。彼女はエッセイも秀でていて、それまでの全エッセイを収めた『金井美恵子全エッセイ』というのも出版されていますが、とにかくこれらはぼくの人生の宝物です。入手してから何度も読み返しては、机の上に置いてうっとり眺めていたりしていました笑。とにかく、この新鮮さは何か、と驚かされたわけです。

その何気ない日常の細部に目配せされた視線の緻密さ。彼女の作品を読んだときに、ぼくはすぐにシャンタル・アケルマン等の映画を想起しましたけれど、この作品で言及されているように、彼女が最初に書いた小説「愛の生活」のアイデアはアニエス・ヴァルタでしょう。そして物語の構造的方法論は間違いなくジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』からそのまま踏襲されています。台所、食材、煙草、コーヒー、ノート、ペン、手紙、特に食べ物に関しては執拗な描写が出てくるのですが、それらがとてもリアリティーがあります。普通なら、小説の小道具でしか有り得ない、それらの多くのさりげない日常のディテールが、まるで壮大な作品の主題のように思えてくるのです。

「愛の生活」について

彼女の処女作である「愛の生活」はこのような書きだしではじまります。

一日のはじまりがはじまる。

昨日がどこで終ったのか、わたしにははっきりとした記憶がすでにない。

昨日がどんな日であったかを、正確に思い出すことがわたしには出来ない。枕元の時計を見ると十時だ。昨日の夕食に、わたしは何を食べたのだったろう? 昨日の夕食に、わたしが食べたの

は、牡蠣フライ、リンゴとレタスのサラダ、豆腐のみそ汁だった。

一昨日のは、ポーク・チョップとジャガイモのサラダと葱と油揚げのみそ汁を食べた。昨日の昼食はクロワッサンに牛乳で、一昨日も、同じだった。昨日、やはり十時に起きた時、わたしは一週間までの、夕食と昼食の献立を仔細に思い出そうとして、遂に成功して、それをちゃんとノートに書いておいた。

ところが今朝は、それを断片的にしか思い出すことが出来ない。昨日の朝、わたしは四日前の夕食に何を食べたか思い出せなくて、Fのところへ電話をした。

この引用部分を読んだだけでも、この小説がいかに新鮮さに彩られた作品であるかは頷けるかと思います。

この“はじまり”の時点において、明かに一日は始まったわけですが、主人公の「わたし」は、それを既に不安な思いで迎えています。彼女が目の回りの細部に拘るのは、そして記憶に拘るのは、その日常の不安を取り除いて、元来あるべきものの「連続性という日常の安定」を取り戻したいからです。けれども記憶とともに、その他数多くの映画や詩や音楽の引用によって思いは並列的に埋められていき、彼女の不安はますます助長されていくばかりです。最終的に、その不安の先は、自分の夫である男性に対しての〝愛〟という究極的な希求において現実化を試みようとしますが、それは唐突に出くわした自動車事故で、再び全てを破壊するようなさらなる混沌とした不安へと、霧散されざるを得ません。

ここで19歳の金井美恵子が描いてみせた愛は、主人公が思い描く愛と、現実の愛とのギャップを対比させて、まさしく恋愛の不可能性という渇きと徒労との往復運動の間で、絶対的な不安をとことん増幅されていかざるをえないものです。それを紡ぎだす筆の運びかたは、やはりゴダールら、優れた映画や文学に通じる残酷さがあると思います。

「夢の時間」「森のメリュジーヌ」「永遠の恋人」「兎」「母子像」「黄金の街」「空気男の話」「アカシア騎士団」「プラトン的恋愛」について

この〝新しい作家〟である金井美恵子が提出した「愛の生活」は純粋な言葉への希求において傑出しているのは明らかですけれど、大げさではなく、このとき、〝近代〟という意味での「父権」が崩壊してきたのだ、それを描いたのだ、とぼくは読んで思いました。

現れているのは、まぎれもない〝女性〟の視点であって、もちろんこれまでにもたくさんの優れた女性作家はいましたけれど、こんなふうな小説は今までなかったはずです。彼女の小説は当時の1960年代後半においては、前衛小説に括られたらしいですけれど、その後彼女は初期の代表的長編である『岸辺のない海』(1974)においてヌーヴォーロマン風の小説を発表しますが、つまるところ、今読めば普通に読めるんですけれど、いかにも時代に沿った存在だったわけです。初期金井美恵子の小説の新鮮さの理由は、何よりその当時の近代小説を脱却していくポスト・モダン性にあって、まずその日常のディテールこそが主題となりうる、というあまりに女性的な起立にこそあったに違いないです。それは男性的といえる大文字のストーリーを破壊するところで、現れてきました。

「愛の生活」の次に収録されているのは芥川賞候補にもなった「夢の時間」ですけれど、「愛の生活」ではまだ日常生活に溶け込んでいた淡いエクリチュールの萌芽を、ここでは大胆に直接その「夢」という自由気ままな中で、言葉の豊饒化を描いています。続く、「森のメリュジーヌ」「永遠の恋人」もまた、「愛の生活」「夢の時間」同系の作品といえ、〝不在〟に現れる愛への渇望が、そのまま密室的なモノローグとなって濃密なメルヘン世界を描いていきます。特筆すべきなのは、それらが初期の頃の作品より、かなりリアリズムの整合性を解き放たれて、童話的な雰囲気を装ってきているところです。彼女の作風は次第に変化していきます。これは「兎」によってさらに発展し、初期の完成形スタイルともいえる、まさしく残酷という名の〝金井版少女小説〟を形成します。

「兎」について

その「兎」ですけれど、ぼくは金井美恵子の短篇は全作品読んでいるのですが、彼女の決定的な最初の兆候はこの辺りにあったと思われます。「兎」は、それまでの作品の形態と、いささかその色合いを異にしているのです。このような書き出しではじまります。

 書くということは、書かないことも含めて、書くということである以上、もう逃れようもなく、書くことは私の運命なのかもしれない。

この作品に登場する主人公は、『不思議の国のアリス』のアリスのごとく、散歩に出かけた際に、兎に化けた人間の異様な世界に引き込まれていくのですが、最初にこのように作者の手に示されているように、これは単なるメルヘンではなく、〝書く〟という行為に対しての自覚を扱った自己言及的な作品です。この「自己言及的な自意識の解体」は、この後、しばらく金井美恵子の主な作品のテーマになっていきます。

「兎」においては、「リアリズム」や「物語」という枠組みに留まらない「現実」を脱構築(解体/再構築)するための、書く、という行為そのものを相対化しているわけですけれども、さらにその筆が突き進んでいくと、たとえばこの作品集に収められているものだと、「母子像」では母子の対立が逆転され、「黄金の街」では近親相姦という永遠の迷宮の甘美さが描かれ、「空気男の話」では〝時〟や〝記憶〟そのものの〝空洞〟が語られます。それらは生き生きとした筆の運びながら、やはり残酷=自由なメルヘンの世界を作者の想像力が自在に闊歩していきます。

「アカシア騎士団」「プラトン的恋愛」について

最後に掲載された二篇、「アカシア騎士団」と「プラトン的恋愛」、これもまた金井美恵子の文学的変化が見られる代表的短篇といえるので、少し詳しく述べます。「兎」において萌芽した、〝書くこと〟への自己言及性が真正面から捕らえられているのが、この二作品だといってよいからです。

「アカシア騎士団」では、作者を主人公に、いかに従来の意味での〝小説家〟というものが実は凡庸な存在であるのか、そのことを冷笑している事態が描かれています。ここに現れるのは「唯一」を求める作家=人間の滑稽さであるのにほかならず、その不可能性です。ここから導かれる小説的主題とは、もちろん〝虚構の勝利〟でしょう。

プラトン的恋愛」は、この時代特有の(1979)、典型的な自己言及的小説で、この作品においてとうとう、〝書くこと〟が完璧に宙吊りにされています。作者の元に、「その本を書いたのは私だ」と本当の作者から手紙が来る、という奇抜なストーリーなのですが、これは書くことの不可能性を作家自らが小説において真っ向から体現するという意味合いにおいて、本来の小説の在り方を根源的に問うている作品になっています。

金井美恵子の文学性

初期の金井美恵子の作品をざっと眺めていくと、金井美恵子という作家がいかに特有であったかが、いくつかの短篇作品を読むだけでも、わかると思います。ぼくが彼女の文学が面白いと思うのは、彼女は最初「愛の生活」のような極めて女性的な作品、フェミニストが悦びそうなリアリズムの整合性を崩す作品から出発しながら、そしてそれを有効に活用しながらも、やがて「プラトン的恋愛」のような批評性を獲得して〝相対化する視線〟を研ぎ澄ます方向にその筆を伸ばしていったことです。本来は〝男性批判(リアリズムからの脱却)〟でも十分女性作家の価値は高かったと思いますが、そういう女性作家は実際多いわけです、金井美恵子という作家にとってはジェンダーが重要なのではなく、〝書くことそのもの〟が重要な文学的課題だったのでしょう。

プラトン的恋愛」などは、これは一向に男性作家が書いたものであったとしても、違和感はない作品なわけで、本来自己言及性が必要なのは〝男性〟のほうでしょう。実際ぼくらが住むこの「社会」は男性が多くを作ったといってよいのです。金井美恵子がこれらの作品で示しているのは、男性もまた己の男性性であることを批評すればそれで事足りるのではなく、絶えざる性の変異を強いられる存在でなければばならないといった批評性への誘惑を示すものなのだと想像します。

 ポストモダン作家としての金井美恵子の影響

この初期短篇集といっていいと思いますが、この作品集には「愛の生活」のような〝男性性〟を批判することによって女性的な作家を起立させる作品 から、〝性の差異化〟に留まらずに全ての同一性に対しての違和感、この世界の全ての差異化の運動そのものに向かっていった、金井美恵子という稀有な作家の軌跡が表出されて います。

後に1980年代、90年代において現れる女性作家たち、たとえば松浦理英子笙野頼子多和田葉子らは、間違いなく金井美恵子の影響下に現れた作家だとぼくには思われてならなくて、70年代から活躍しはじめた後藤明生のような「内向の世代」と称された男性作家や、中上健次阿部和重のような作家も、彼女の作品を読んでいようがいなかろうが、金井美恵子を抜きにしては語ることはできない作家たちだと思っています。それくらい彼女の文学は、端的にいって特異であり、なにより早かったのです。

彼女の作品はすべて面白いと思いますが、彼女の本領はやっぱり短篇にあるとぼくは思うのですよ。最初に金井美恵子を読むなら、短篇から、さらに初期の「愛の生活」から読んでいくことをお勧めします。

「目白四部作」――実際彼女は東京の目白に住んでいるのですが――と呼ばれる通俗小説も面白いんですけどね。もちろん彼女の手にかかるとそれだけでは終わらないわけですが。やはり「目白」と名付けられた『目白雑録』という毒舌なエッセイも彼女は書いていて、ほかにも批評はもちろん本当に示唆に富んでいますし、たとえば彼女の『小説論』などは、ぼくはこれまで何回も繰り返して読んでいます。

金井美恵子という作家は文壇とある種一定の距離を常に置き続けて、長年作家活動をされてきましたが、だからといって難解な作家ではありません。彼女の文章はなにより「官能性」に溢れています。「リアリズム」に縛られた男性・父権社会を、両性具有性へ、時制の曖昧な有機性へ、動物との境界を無効にする古代性へと、その余りにメ ルヘン的な方法で、本来の――未だかつてない、とうい意味でしょうけれど、実際には、女性的なものへの奪回のその軌跡であるとぼくは考えます――世界を開拓しようとする彼女の文学は、そう考えるならば、ぼくがこの作品 集の中でみるなら、最もリアリズム色の強い初期の「愛の生活」に惹かれるのは、自分が男であるという確固とした証明になるんだろうな……と自嘲気味に 思ったりも今はしています。

彼女は先にあげたゴダールももちろんですけど、官能的という意味では、ルノワールの映画にも決定的に影響を受けているはずなんですけど、「好きな映画作家は?」というインタビューにおいて、「エリック・ロメール」とこたえているその純粋なところなんかも、ぼくは金井美恵子という作家がとても好きな部分だったりします。彼女は作家デビューした頃に、レコードデビューをしていたりもします笑

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