ナチュラル・ウーマン 松浦理英子

松浦理英子は寡作な作家で、出版された作品はそれほど多くありません。現代を担う作家なのか、というのも少し微妙かもしれません。存在的にアウトサイダーであり、幅広く読まれている作家だとは到底いいがたいです。
代表的長編作である『親指Pの修業時代』(1993)がいちばん有名な作品なのかもしれなくて、これは部数的にもそこそこ売れたみたいです。でも僕はこの初期の頃の、とりわけ『ナチュラル・ウーマン』(1987)が、彼女の作品では個人的に気にいっています。実際彼女にとっての資質が最もよく表れた素敵な作品なんじゃないかと思っています。

ナチュラル・ウーマン (河出文庫)

ナチュラル・ウーマン (河出文庫)

『ナチュラルウーマン』は三つの短編を収めた連作形式になった作品です。語り手は同一人物です。ほかに登場する人物も連鎖してくる場合もあるわけですが、その主人公から見られる恋愛の「対象人物」が話しの都度変化する、という構成を持っています。
これは、「同じ主題」を別の角度から語った、例えばウィリアム・フォークナーや、日本でいうと中上建次が描いたようなサーガ(物語群)、といってよい小説のタイプで、作品が多角的な視線の役割りを担って交錯し、それぞれがそれぞれを侵食し合って構築―脱構築し合っていくのではなく、それらの断片的な話しが纏まってひとつの〝多様である物語〟を形作っていくという様式になっているわけです。

ちょっとわかりにくいかもしれませんけど笑。内容などを説明していく過程で、だんだんわかるものがあるかな、と思っています。興味ある方は、三作品をレビューしていますので、どうぞ。

「いちばん長い午後」

 部屋ではベッドのマットレスを濡れ雑巾で叩く音が続いている。
私は水道の蛇口を大きく捻って手についた漂白剤のぬめりを洗い流していた。染の広がったシーツを漬け込んだ盥から立ち昇る塩素のつんとした匂いが浴室に籠っている。塩素は皮膚の表面を溶かしてしまうのか、漂白剤を使った手は不自然に光り、蛋白質焦がしたような異臭まであった。洗面台からハンド・クリームを取る。
濡れた浴槽の縁に腰かけると寒気が背筋を這い上がった。私は何もつけていなかった。かがみ込んでシーツを洗ったせいで、腕にも脚にも胸元にも水が飛び散っている。五月とは言え朝晩は肌寒い。鳥肌の立った腕を遮二無二動かして荒れた手をマッサージした。
浴室の入り口に下着姿の夕記子が立った。薄赤く汚れた雑巾を手にしている。
「とれた?」
「だいたいね。」
夕記子と入れ替わりに浴室を出て部屋に入る。ベッドのマットレスは水分を吸って黒黒としているが、汚れは消えており染が残る心配はなさそうだ。部屋着代わりのパジャマを着てスウェット・シャツを頭から被り、カーテンを開く。快晴だった。
今朝は血溜りの中で眼覚めた。寝返りを打って脚を伸ばすと、腿の下に生温かい湿り気を感じた。探った手の先に血がついて来た。私のものではない。昨夜遅くやって来て黙ってベッドにもぐり込んだ夕記子の血だった。当人は出血にも気づかず泥のように眠っている。額と鼻に脂が浮き唇は乾き切ってところどころ皮が剥けていた。私は腹這いになって上体を起こした。蒲団の間に澱んでいた二人分の耐熱が逃げて行き、一月ぶりの夕記子の体臭が枕辺に漂った。   ( 『ナチュラル・ウーマン』所収の「いちばん長い午後」  松浦理英子)

いきなり引用からはじめましたが、この部分は、最初に収められた「いちばん長い午後」のある場面です。なぜここを抜粋したのかというと、文章に皮膚感覚的な官能性があるのが読みとってもらえるんじゃないか、と思ったためです。
この作品は、収められた3つの作品の中で最も完成度が高く優れていると僕は思っていて、ある意味エキセントリックな倒錯的世界が抽象度を持って完結されています。描かれてある内容は、ずばり〝レズビアン〟です。

その限定された、意識せざる得ない「共同体」の中に閉じ込められた三角関係の女たちをめぐって表出する、ある種の「権力闘争」がここに描かれていきます。「関係性」は、松浦理英子作品の重要な特質性ですが、ここでなにより重要なことは感受性が心理的にではなく、身体的に描かれてあるという点です。

漫画家の容子という女性が登場人物のひとりとして登場してきて、彼女が主人公なのですが、夕記子という女性また重要な人物として、三角関係のひとりを担う人物として登場します。夕記子が容子の現在の彼女であり、いささかサディスティックな性質の持ち主なのですが、花世という女性も、現在容子の住んでいるマンションの一階で喫茶店のウェイトレスで働いているという設定で登場してくるのです。

彼女は以前の容子の恋人であったという設定で描かれており、さらにもうひとりまた由梨子という、容子のアルバイト先の友達も登場してくるわけですが、こう書くと、三角関係を越えてすごく複雑なようですが、実は作品自体はとてもシンプルな構造を持っているといってよいです。

この「いちばん長い午後」では、基本的に、「容子」と「夕記子」との間で縺れる「恋愛」というより、「痴情」が話になっています。そこに身体性が絡み合ってきます。夕記子の容子に対するサディスティックさが露骨にだんだん露わになっていきます。

 とは言え、度を越した振舞いに及ぶことがあるからこそ私は夕記子に惹かれたのだった。友人の紹介で知り合って間もない頃、料理中に油がはねてできた私の火膨れを彼女は万年筆のペン先で突き破る真似をした。私は手を背中の後ろに隠すと、彼女の冗談に応えて「ピンセットで引き裂いてくれた方がいい」と言った。結局手の火膨れは他のことで破れたのだが、そういう遣り取りがあってから夕記子は私のアパートを訪れるようになった。   (「いちばん長い午後」  松浦理英子)

このような箇所に現れた夕記子のわかりやすいサディズムは、容子が今尚花世に惹かれているという、きわめて典型的な嫉妬の心理としてもたらされたことが特徴的であるとすぐに読み取れるわけですが、彼女がただの女友達としての由梨子にも、「自分が劣ってしまっているのじゃないか」という劣情感が透けて見てとれるところが重要です。そのような屈折感が、主人公たちの「倒錯的意識」には絡んでいるのです。

もちろん反発する意志を示しもしますが、どこか健気なふうに夕記子のこのサディズムを許容する容子の受動性は、明らかに自分が「レズビアン」であるという、ある種の「社会的負」を背負った自覚からもたらされたものであることは明白でしょう。その具体的な要因が、花世との関係にあったことが、この小説では後につづく作品で次第に明らかになっていくわけですが、夕記子や花世には、そのような社会的な負い目は見つけることはできません。容子の苦悩がここにあります。

この「いちばん長い午後」においては、容子が魅せられている夕記子のそのいささかサディスティックさである奔放さは、べつの他者と比較することで存在性を色濃くします。交際しているのは「好きだから」という一般の恋愛感情ではもちろんあるからですが、彼女を愛しているまでには至らないのは、なんとなく読んでいてわかるのです。その屈折心理身体的傷痕なものに発展するわけです。
容子が愛しているのは、一見つれない素振りを見せる、以前付き合っていた花世のほうであって、けれども花世のほうは、既に容子に関心はなくなっています。ここらの微妙な関係性の「襞」が、サド/マゾの関係性としてこの「いちばん長い午後」には、身体性にまで及んで丁寧に描かれてあり、この『ナチュラル・ウーマン』という繊細な小説のひとつの柱となっているといえます。

「微熱休暇」

次に収録された「微熱休暇」を見てみます。この作品は一転して、サディズムも倒錯意識も現れない、プラトニックな関係性が描かれています。容子がアルバイト先で知り合った、先にも登場した由梨子と海に出かけるエピソードが舞台です。ふたりは肉体的な接触を持つことはなく、精神的な恋愛にときめくものを持つ容子は、太陽に照らされてキラキラと波間を漂う海の存在のように、それだけで十分心が満たされているようです。
この作品は、「いちばん長い午後」から4年後という設定になっており、なぜ彼女はそのような激しい恋愛を過去にしていたにもかかわらずプラトニックであることで満足できるのか、それが前の「いちばん長い午後」から理解できるように、いわば作品が、時の経過を経て「設置」されているのです。

「ナチュラル・ウーマン」

最後に収められているのが、タイトルともなっている「ナチュラル・ウーマン」です。この小説の主題みたいなものが、ここではっきりと輪郭を現していきます。このいささかもう年をくったといっていい女のプラトニックの恋愛感情が、なぜかくも爽やかであるかは、そこに〝純粋性〟としか呼びえないものが潜んでいるからにほかならないことが、読者にはわかってきます。

「いちばん長い午後」では受動性からもたらされる身体的な感受性が描かれ、一方で、男性にも恋焦がれ、一方で、女友達と、いわゆる普通の友達の付き合いをしようとする容子は、明かなレズビアンとして真っ当しようとする夕記子のような存在にも憧れているという複雑な心理もまた持っている、と先に書きました。人が人に欲望するとき、それは手に入らないものであるから、それを欲するのは明白です。それはいかにも人間らしい業であるといってよいですし、それが恋愛の本質であり、苦悩の本質だといってもよいです。そしてまた人間の関係性の真理といってもよいのです。
レズビアンになりきれない容子は、この小説では負い目を持つキャラクターであり、その狭い枠組みから覗く夕記子の世界から見れば、それは自分にはない欲望なわけです。「微熱休暇」では一転して極めて純粋なプラトニックな恋愛模様が描かれてあって、つまり、そこに認められる対極の痕跡とは、無論、この作品の主題である、「恋愛の不可能性」というものに他なりません。

松浦理英子の文学性について

僕は彼女の作品は、デビュー作の『葬儀の日』(1980)から順を追って読んでいきました。彼女はデビュー時まだ19歳でした。金井美恵子といっしょですね。彼女の作品を読んだとき、その観念的すぎる叙述に、まだ小説を描くのが上手くいっていないんじゃないかなあ、と関係性を描く手腕に驚きつつもよけいなお節介的な印象を思った記憶がありますが、この『ナチュラル・ウーマン』を読んで、やっぱり凄い作家だ、傑作を発見した、と興奮しました。
松浦理英子という作家は基本的にナルシスティックな作家だと、あくまで僕個人の感想ですが、思っています。彼女が同性愛者である(?)という意味合いもそこに重大な要素としてきっと多分に含まれるものがあって、これらの理由は後で述べますけれども、つまるところ、方々からこのように描いて、結果的に多様であるようにすればいいという形式の達成をみたこの『ナチュラル・ウーマン』という小説が、内容的にも方法的にも、彼女の良質さが最もよく出た作品なのじゃないかな、と僕は思っている理由が、ここにあるわけでです。

『ナチュラル・ウーマン』というこの小説的主題とは、端的にいって、先ほどもいいましたけれど、「恋愛の不可能性」といってよいです。要は、不可能だから、このように別々の主題で語っているわけです。

もう一度『ナチュラル・ウーマン』に戻って、詳しく言及します。最後に収録されたタイトル作である「ナチュラル・ウーマン」は作品の時制が一番昔に戻っているわけです。容子は19歳の時点に設定されています。
通常誰しもがこの年齢の頃に想像するようなティーンの真っ直ぐな恋愛の形がここには描かれ、無論それはレズビアンとしてのものですが、実はこの作品が、収録された三作品中、最も読者に分かり易い作品内容になっており、こうして最後まで読むと、最初の「いちばん長い午後」の倒錯的世界の一見アバンギャルドな変態的世界が、逆にものすごく純粋性を帯びてひしひしと際立ってくるのが、とても不思議な感覚として、読者に伝わってくると思わざるをえません。

彼女らはともに、自分のないものを求め、自分にあるものを積極的に肯定できない、という「関係」を、小説内で描きだしていきます。漱石が取り組んだ「三角関係」の命題にも非常に似ています。そこに惹起されるのは、サド/マゾに支配された、権力関係が露出するあまりにも社会的な人間の欲望的世界です。「いちばん長い午後」で現れているその象徴性として用いられている身体性は「肛門」ですが、恋愛は互いを激しく燃え上がらせ、幸せにしますが、たいてい破局が訪れるのは、恋愛が不可能に基づいて欲望されたものにほかならないからです。松浦理英子という作家は、それをきわめて繊細な感受性と、そして身体的特質によって、ここで物語っているのです。

この三つに分けられて描かれた時代も違えば、方法も違う恋愛が、単なる青春の甘美さや憧憬を越えて、「永遠の愛の成就」のように愛しく見えてくるのは、そこに「恋愛の不可能性」に基づいた、かけがえのない一瞬/永遠の感受性が、作者の手によって痛切に掬いとられているからです。この作品はそもそもそのように三つの作品自体が「三角関係」的構造を持っています。そしてひとつの「恋愛」という複雑なものをせつないようになんとか構成しようとしているわけです。

 松浦文学の権力構造について

僕は松浦理英子という作家は、基本的に、マゾ的、受動的な作家であると思っていて、――ジャン・ジュネの影響を直接受けた小説も描いています――だからこそ逆説的に、その視点が終始男性的視点で小説が構築されているのが、彼女の長所であると同時に欠点でもあると思っています。それがこの『ナチュラル・ウーマン』のような作品には優れて描かれてあると思うのです。とにかくこの作品で重要なことは、登場人物の彼女たちが女同志のほうでもみんな女の役回りであって、それは決して逆転することはない点であるということです。

社会的男性的視点とは、一般的に権力機構を無視できないという意味合いでここで僕は用いますが、受動的感覚を持って、どうしてもそれを素直に受け入れることができない存在として起立しています。松浦理英子という作家は、「女性性」をまっすぐに肯定して絵柄が描く、男性的社会を無視していくような、たとえば江國香織のような作家とはたぶん真逆にいて、すごく社会性を意識せずにはいられない感受性を持っています。しかし、それは生理的には拒否反応を起こさざるを得ない側面も彼女は抱えており、この引き裂かれた「矛盾」を身体性にまで及ばせて描くところが彼女の特異性であり、マゾキズムを起立させずにはおかない感受性であり、また極めて純粋性を喚起させる文学性であると思ってやみません。ぼくが似ている感受性を持っているかな、と思うのは、現代の日本作家ですと、中上建次、桐野夏生村上龍らです。

三島由紀夫文学賞の影響云々について

蛇足の話を少し書きます。この『ナチュラル・ウーマン』は当時第一回三島由紀夫賞候補作となった作品でした。選考委員にいち早く松浦理英子の才能を見つけた中上健次がいました。中上建次は実はもう候補作の選出から漏れた作品であったにも関わらず、この彼女の作品を強引に候補作として取り上げて推薦したと聞いています。結果、当選はせず――当時第一回三島由紀夫賞を受賞したのは高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』(1988)でした。――、「彼女を巻き込んだような形にして申し訳なかった」ということを書いたとかいったとか、そんな記事をあとで僕は読んだ記憶があります。

中上建次がこの作品をとても推したのは、先に書いたようによくわかって、自身と書き方がよく似ていることもあるからですが、実際これはとても素晴らしい小説だからです。当時選考委員には、中上のほかに、大江健三郎筒井康隆宮本輝、文芸評論家の江藤淳がいたのですが、全員が違った作を推した、という話です。結果、消極的に皆が同意し、江藤淳の推す高橋氏の作品が受賞することになりました。

しかし、これほど痛々しくも甘美で美しい小説は類例がなく、彼女の作品の中でも最高傑作に値するレベルの作品のひとつであり、でも賞には落ちたし、ベストセラーになったとも聞きませんし、話題になった話も聞いたことはありません。彼女が後に寡作になっていったのは、このときの事件が少し影響があるのじゃないかと、ちょっとばかし僕は邪推してならないのです。

優れた作品なのに評価も受けず、売れもせず、話題にもならない。もちろん好みなど人それぞれだし、そもそも文学や芸術なんてそんなものだ、といわれたらそれまでです。だから僕のような人間が彼女の小説の素晴らしさを、こんなふうに書くしかないわけです。

松浦理英子が描く小説の純粋性

欲望に支配された関係性の衝突は、その根源的とでもいえる〝快楽〟に身を任せたとき、全てを溶解させていきます。それは最も表面的に、「権力」を露出させる場所です。
松浦理英子という稀有な作家がきわめて鋭敏に紡ぎだす身体と屈折した心理から紡ぎだす純粋な感受性は、深層的に全てを等価としてしまう場所を浮き立たせます。人物たちは「支配」と「非支配」という関係性に対立し、水流に揺らぐ葉のようにすっぽりとそこに身を浸すことで、その官能の中で引き裂かれ、傷つき合い、嫉妬し、憎み、そして憧憬を育みます。
そもそも権力構造というものは、一方的な抑圧や、互いの妥協によって解消されるのではなく、明確な支配/非支配の構造によって解消されるのみです。松浦理英子は単なる恋愛を越えた、普遍の人間の慈しみ溢れる関係性として、そのような「社会性」をこの作品にみごとに描いていると僕は思います。

ここに描かれてあるのは、恋愛、なのです。

これは倒錯の世界を描いたレズビアンの小説ではありません。あくまで社会的な権力構造を意識し、その関係性を露出させた、純粋な愛情に満ちた、類例を見ない美しいて恋愛小説なのです。

ちなみにこの作品は映画化されていますので、ご覧になりたい方はDVDで是非。94年に一度、その後さらにリメイクされています。

ナチュラル・ウーマン [DVD]

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ナチュラル・ウーマン2010+1994 [DVD]

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