ロックンロールミシン 鈴木清剛

1998年に上梓された第十二回三島由紀夫賞受賞作。作家のお名前はずっと知っていて、読んでみたかった方だったんですけれど、彼の作品に触れたのは僕は意外と遅かった。
この作品には、けだるい二十代特有の若者の生態が描かれています。タイトルもいかにもな青春小説風味で、ある種の、現代でいえば、たとえば浅野いにおにも似た青春漫画にも通じる〝脱力系〟的雰囲気があって、本来鈴木清剛という作家が、その作品において抽出しているのは、日本の「1990年代」という、彼が登場したまぎれもないその日本の時代感覚だと僕は思います。

鈴木清剛さんは『ラジオデイズ』というやはり若者たちの生活を描いた作品で、文藝賞を受賞して、1998年にデビューしています。寡作といってよく、『ワークソング』(2008)以来、ほぼ現在は出版が止まってしまっていますが、僕は新作を待っています。日本の現代文学における重要な作家のひとりだと信じているからです。

ロックンロールミシン (新潮文庫)

ロックンロールミシン (新潮文庫)

『ロックンロール・ミシン』のストーリー

一流企業に就職した賢司は日々の仕事に疑問を少しだけ感じはじめているところから物語ははじまります。彼にはもともと夢がありました。それで、ひょんなことで高校時代の友人の凌一の仕事を手伝うことになります。
凌一はインディーズブランドを仲間たちと立ち上げようとしていて、友人の賢司にも手伝って欲しいというのです。最初賢司はそれをどこか胡散臭く、つまり「いい年したのがいつまで子供じみたことやってんだよ」と、思うわけですが、最後にはメンバーの誰よりも熱意を持って仕事に取り組んでいくようになっていきます。
実際彼が友人の仕事にまったく興味を持てなければ断ってしまえばよかったわけですし、途中で辞めることもできたはずです。しかし、彼がのめりこんでいくのは、再び夢の情熱を取り戻したから、というのは実はちょっと違っていて、ここがこの小説の最大のポイントなんですけど、それが事業として成功するのではないかと具体的な作用をそこに与えることが、彼を興奮させたその情熱の理由なのです。
事件が起こります。言いだしっぺの凌一が、この事業をやめる、と突然いいだします。彼らの夢はあっけなく頓挫してしまいます。賢司はせっかくやる気になっていたのに、成功するかもしれなかったのに、途方に暮れてしまいます。これはそれだけの小説です。そしてそこが素晴らしいです。

ロックンロールミシン』という小説の内部に刺さった夢という刺

 寝息さえ、聞こえなかった。

毛布がゆっくりと肩からすべり落ちていく。誰もが石になったような眠りかただった。凌一はスチールラックの前に、椿はソファーの上に、カツオは机の下にいた。賢司は薄暗い部屋の中を見渡し、気のない欠伸をひとつすると、温もりの籠った場所から勢いよく抜け出した。 (『ロックンロールミシン』 鈴木清剛

  手にしていた布を床に落としたとき、賢司は急な疲れを覚えた。椅子に座ったまま状態を屈ませ、瞼を閉じて目元や額を揉みほぐした。この部屋に充溢している感情は、いったいなんなんだろう? 三本分の鋏の音がした。やがて掌の温もりが頬骨にまで伝わってきて、賢司は目を開けた。指の隙間から音のするほうを見ると、凌一が鋏を握ったまま色の山をかき混ぜて、肩ぐらいの高さから布をバサバサと落としている。強張っていた表情が緩んで、埃の中で瞳を嬉々として輝かせていた。その男と何年も友人としてつきあってきたことを、賢司は不思議に思った。少しも理解できるところがなかった。すぐにでもこの場から離れたくなって、賢司はドアへと歩きだした。

「近田、どこ行くんだよ」
凌一は振り向きもせず言った。
「帰るよ」
「お前も切れよ」
「オレはいいよ」
「お前も切れよ。オレほんとは、オレたちだけで片付けようって思ってたけど、来ちゃったんならしょーがねえよ。お前も切れよ」
「やだよ」
「やってみろよ。そのほうが、すっきりするって」
「すっきりしてどうなるんだよ?」
「切ってみりゃわかるよ。やってみろよ」
「お前らだけで勝手にやれよ。強要すんなよ」
「いいから切れよ」
「オレはやらない」
「切れよ、近田」
「やらねえよ」
「近田っ」
「やらないつってんんだろ」
鋏の音が聞こえなくなった。服のことは最早どうでもよかった。とにかく、この部屋から離れたくて仕方なかった。    (『ロックンロールミシン』  鈴木清剛)

最初の引用は、この小説の出だしの箇所です。次の引用は、この作品で僕が最も優れていると思う場面です。最後のほうに出てきます。最初の引用場面は、この小説のある種のけだるさを上手くとらえたものと思って、提出したわけですが、次の引用した箇所は、やめる、といいだした凌一が、自分たちであくせく作ってきた洋服を、自分たちの手で鋏で切る、最大のクライマックス・シーンです。勝手にやめるといいだして、「おまえもやれよ」と凌一は賢司につめよるんですが、賢司はそうすることができません。
そもそも凌一はなぜ仕事を中途で放り投げてしまったのか。

「これじゃだめなんだよ」的な発言をします。とにかく凌一は今の感じじゃダメなんだといいます。賢司に、作った服を切れ、ととにかくこのとき詰め寄ります。賢治はできない、とただいいつづけます。
なぜ凌一が納得せず、そんなことをし、また賢司もそうしないといけないのか。この小説の最大の山場は無論ここです。
ここにはいわゆる「夢」というものの本質がみごとに描きこまれています。彼らの仕事は傍からみたなら、半ば遊び感覚でしか見えないし、たまたま軌道にのったベンチャービジネスくらいには映ったものではあったかもしれません。モラトリアムの中で育んでそれを脱け出す領域の物では将来的にもないものかもしれません。人生は甘くない。結局はうまくはいくことのない自己満足的で成熟することさえないものなのかもしれない。しかし、自分たちが育んできたものを仕事を自分で潰す、というその一見混乱したかのような自虐すぎる行為は、それらの夢についての穿った「外側からの推測」のすべてを打破する強いリアリティーを持っているのです。

凌一がこだわったのはあくまで「夢」なのは明白です。それはとても曖昧なものなのですが、とにかく「夢」なのです。一方、賢司がこだわっていたのはビジネスにほかなりません。「夢を自らの手で破壊する」。なぜそうしなければならないのか。そのことで夢が本当の夢として暴露されるからです。

 モラトリアムを描く鈴木清剛文学

一時期、この鈴木清剛などの若手の作家が出た1990年代頃ですけど、「J文学」なるものが世間で流行しました。古き良き時代です。阿部和重なんかもそのひとりに数えられた作家だと思いますけれど、等身大的な若者たちが描かれ、夢を抱きながら、それを持て余す、そういった小説がいくらか描かれました。それまでの青春文学と異質であったのは、描かれる人物たちに反抗心はそれほどないといった装いです。ただグダグダする甘えた若者たち。大学生だったり、いい年したフリーターだったり、そんな都市生活を生きる若者たち。しかし、彼らが深刻に悩んでいるのは事実であって、それは彼らの持つ「夢」の重たさではなく、もっと感覚的なものの変質に、それまでとは違った青春のありかたが現れていた、といってよいといえます。

この辺りをもう少し深く掘り下げます。

その後90年代を終え、ゼロ年代になって、若い人に、夢を持て、と大人たちがいう光景を、よくその後僕はテレビや雑誌で見るようになったような気がします。「最近の若い連中は情熱がない」とかなんとか、そのうち「草食系男子」というネーミングまで誰がいいだしたのかすっかり定着しました。なにごとにも積極的じゃない若者(男性)をマスコミは世間に流布させていったような気がします。

しかし、90年代後半に登場した、たとえば鈴木清剛が書いたこの『ロックンロールミシン』という小説は、まだ「草食系」といわれる前の、まだ辛うじて貪欲だった、つまり退廃的ながらも夢を持っていた、まさしく「90年代の若者たち」を描いた小説です。主人公の賢司は最初成り行きで彼らとベンチャー的仕事をはじめてゆき、だんだんと意外とうまくいくのじゃないか、と希望を持ちはじめていって、元サラリーマンらしいあくまでその「発想」で、「仕事」として拡大する「夢の起伏」を描いていくストーリーを自分でなぞっていきます。彼は彼なりの夢の形を追い駆けていたのは事実です。
この小説を解く「鍵」は、夢を破壊したのは、意外にももっとも「夢の位相」を拡大化させて、それを具体化させていった賢司その人ではなかったのかという点にあることは間違いありません。凌一や椿(凌一の彼女)の夢を完全なビジネスへと摩り替えて行ったその賢司の姿勢は、実は夢のなんたるかをここで逆説的に暴露しており、この対立によって、小説を奥深いものにしているといってよいわけです。

夢のリアリティーとは?

たとえば、この小説にはこんな描写があったります。

仕事を休んで、仕事仲間の女の子とホテルへ行ってしまう凌一の態度に、賢司は、彼らが本当に夢に対して情熱を持っているのか? と疑問を持ったりするわけです。「やつらのはやはり中途半端で遊びなんじゃないか? 真剣なのはおれだけなんじゃないか?」と。しかし、彼らが服飾(実際鈴木清剛という人はアパレル関係の経験者です。)に情熱を持っていないというのは正しくありません。その「情熱」の度合いではなく、意味合いが、賢司と彼らとでは微妙に距離感があるのです。「うまくいくかわからないけれど、服は一生作りつづけていくよ」と凌一は賢司に最後いいます。小説終盤の最も美しい場面です。

 フリスビーは二枚あった。キャッチしてすぐに投げなければ、また次の一枚が飛んでくる。青い隙間させ見えない薄灰色の空の下、投げて捕るだけの遊びに四は大騒ぎした。回転するリングは大きなカーブを描き、なかなかねらいどおりの場所には落ちていかない。黄色と蛍光黄緑のフリスビーが、屋上をひっきりなしに飛び交い、賢司たちは夢中になって走りまわった。体がすぐに熱くなり、汗がコンクリートの地に点々の染みをつくった。
三十分もすると座りこんでいた。椿とカツオは後ろに手をついて脚を投げ出し、賢司は崩れたあぐらをかいた。凌一はTシャツを脱ぎ捨てて大の字に寝転び、すっかり腕に馴染んだ鳥の刺青を掻いている。
「すげー疲れた」
「二枚でやると忙しいっすねー」
「やっぱオレ、家に帰って着替えてくればよかった」
「革靴だしね」
「今日受けに行った会社も、やっぱ前と同じような会社なのかよ?」
「ああ、同じような、データベースの会社」
「やっぱ、近田はそういうのがお似合いなんだよな」
「……そうかな」
「そうだよ」
「でもオレ、会社に行くのが今から楽しみなんだ。どうせまた同じ世界だってわかってるけど、早く出勤したくて仕方ないんだよ」
「だから言ってんじゃん。近田は組織型なんだよ。オレはそんなの一生ごめんだけどね」

(『ロックンロールミシン』 鈴木清剛)

これは凌一らとの仕事を辞め、再び就活をして就職した賢司が、相変わらず子供みたいな凌一らと出会うところです。彼らはフリスビーをして遊んでいるのです。そのときなんだか賢司は今までにない甘い気怠い感覚を味わいます。それはいうならば、幸福感、と呼んでよいものです。

仕事に情熱を燃やしてそれが頓挫して、仲違いし、わずかな休息を貪る彼らのこの場面には、すがすがしくも、小さな悲しみが漂っています。黄昏がやってきて家に帰らなければならず、作った砂場の王国を自分で壊してしまうしかなく、そうしてぼんやりしているような子供の感覚に、どこかそれは似ているのです。

この『ロックンロールミシン』という小説の極めて文学的な奥深さは、先に書いたように、夢が現実化しそうになったそれを彼らが自らその手で壊して しまうリアリティーにあることに疑いありません。凌一が展覧会への出品をやめるといいだし理由は、それが「完全な仕事」になってしまうかもわからないことに 端を発する懸念にあったのは具体的なひとつの事例ですけれど(凌一はそれを決して否定してはいません)、事業が拡大するのはもちろんいいことなわけですが、いつしか単なる「ビジネス」になっていると き、凌一は賢司以上の戸惑いをそこに見て絶望した自分を想像したのは間違いないでしょう。そして賢司がまったくそのことに無頓着であることに、ある種の苛立ちと、そして悲しみを、単なる仕事関係者ではなく、夢を共に追う友達だからこそ覚えたのです。

夢とはいったいなんであるのか。成功したのに、ちっとも嬉しくないという妙な状況が起こったりするのが、ままあります。叶ったのに、思っていたのとはぜんぜん違っていた、ということもよくあるパターンです。それでも人は夢を抱いて生きていく。

ある者はそれを断念し、ある者はビジネスとして転化し、ある者はそれを自らの手で破壊するのです。

凌一と賢司という対立で描かれたこの『ロックンロールミシン』という作品は、最終的に「夢」と「現実」の狭間にあるものとはなんなのか、その本質を問いながら、そのリアリティーを鮮やかに深く描きだしていった小説だと思います。

夢の真相とはあくまで「可能性」である、ということ

三島賞のときの選評を僕は読んでいないので、この小説のなにが評価されたのか僕にはわからないのですが、とにかくこの『ロックンロールミシン』という青春小説は、鮮やかに「1990年代」という時代のリアリティーを切り取っているのは間違いなくて、そういうところがぼくはとてもすごいと思いました。

夢とはなにか。くどいようですが、もう一度問います。

成功して、お金が入って、ブランドの名が知れ渡ることも夢が夢になることともいえますし、でも、夢がそのまま夢として敗れ去るときもまた、夢の真実はその顔をはっきりと表してくるのです。凌一は少なくとも賢司よりも、夢についての奥深さについて知っているのです。
「これじゃ、ダメなんだ」といったときの凌一の胸にある不満足感は、創作の根本に位置する感覚をよく表していて、世間的なわががままとは違うものです。それはあまりに近代的な問い、今ここに「在る」この不満足を表出したものと同義でしょう。それをぜんぶなしにするからじゃなく、そこに回答を与えるために、それを自らの手で壊さなければならないわけです。

すべてのアートはそうやって想像と破壊を歴史的に繰り返してきました。これはそういう歴史性をも喚起させます。いっしょに事業を起こして、夢を育んだ友人の凌一は「夢」の真実性を、いわば賢司にここで突き付けているわけです。

凌一には夢がなにかを最初からわかっていた。賢司もまた賢司なりに夢を育んだわけですが、ようやくここで自分がかつて情熱を持ち彼らと共有していた「夢」とはなんだったのかに、たぶんそっと気づいたのです。

1990年代以降

1990年代までは、日本の若い人たちは、未来、に対して夢や希望をまだ具体的に持っていたように僕には思えます。92年にこの国でバブル経済が崩壊し、長い不況のトンネルに突入して、00年代になって、「格差社会」という問題が、小泉政権下で浮き彫りになりました。就職できない若者たち、派遣労働者として使い捨てされる彼らの存在がクローズアップされました。それを越えた、今の若者たちは実際に夢を見ることを放棄している人が多くなっていると実感せざるを得なく、未来を若いうちに達観して、年老いてしまっているように思えたりもする、と今ジャーナリズムはいっています。
彼らが夢を見ないのは、やりたいことがないからじゃなく、もう「夢」とはなんであるか、その真相をかつての時代で見破ってしまった、ということが、僕はなにより若者が夢を持たなくなった最大の理由だと思っています。それが「1990年代」という時代であり、鈴木清剛が描いたこのような作品によく表れていると思うわけです。現代の若者が大企業に入りたがり、公務員になりたがり、専業主婦になりたがり、安定を大きく望む理由には、「未来の綻び」のようなものを薄々嗅ぎ取っているからでしょう。

夢は可能性である、と書きましたけれど、夢は、こんなものでしかない、という人生を少なくとも、そんなものじゃない、と思わせる力があります。でも、これはそれだけで凄いことじゃないんでしょうか? 夢の重要性は、それが叶うことではなく、それが叶うかもしれない、というところにこそあるのです。

※               ※

モラトリアムの青春を真っ直ぐに描いたこの『ロックンロールミシン』という小説は、いかにも90年代的風貌を作品全体的に纏っています。今読んでも新鮮だと思います。この国ではもはや本当に「夢の時代」は終わったのかもしれません。そういう感覚がこの作品にはよく描かれているんです。未来へ向かわなければならないけれど、どうしていいかわからず、足踏みする若者たち。賢司のように企業に従属してしまうことが正しいことなのか、凌一のように夢を追い続けていくことが正しいことなのか、結局のところそれは誰にもわかりません。しかし、なにも解答が与えられていないように見えるこの作品は、実はすでに自ずと誰もが未来へ足を踏み出そうとしているラストの姿勢に明確に描かれており、大事なのは対立するふたりがそこで同じ失望感を味わって、夢の本質に気づいているという点です。

絶望だろうが、虚無だろうが、人は未来へ歩まざるを得ないのです。夢は不可欠なのです。

鈴木清剛さんはエッセイも入れて、たぶんこれまで9冊の著作を出版しているはずですが、短編集の『消滅飛行機雲』(2001)なんかも、ぼくは大好きな作品です。文学はその通俗性ゆえ、時代を刻印するものが必ずあるもので、これはそういう典型的な作品だと思ってやまないです。ちなみにこの『ロックンロールミシン』は行定勲監督で映画化もされたようですが、僕は映画のほうは未見です。

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