図書準備室 田中慎弥

ある種奇抜な芥川賞記者会見?で有名になった田中慎弥のデビュー作を含む短篇集。彼は「共食い」(2011)で第146回芥川賞を受賞しましたが、初めて芥川賞候補になったのが、ここに収められている、彼のデビュー後二作目となる「図書準備室」(2006)です。その前にあたる、第37回新潮新人文学賞を受賞した処女作が「冷たい水の羊」(2005)、そのふたつの作品がこの本には収録されています。

個人的なことですが、ぼくは彼が新潮新人賞を受賞したときに掲載された「新潮」を購入して、そのときに読んだのですが、とても興奮したことを覚えています。新しい才能が現れた、と強烈な衝撃を覚えたからです。

図書準備室 (新潮文庫)

図書準備室 (新潮文庫)

「冷たい水の羊」

収録順は逆になっていますが、発表順にレビューします。「冷たい水の羊」からです。題材は、いじめ、です。

枚数は400字詰め原稿用紙で200枚弱くらいかと思いますが、文体が濃密というより、繊細であると同時に粘着的である独特な文体で、随所に作者の意図がこめられたような晦渋な文章も散見され、決して読みやすい小説とはいいがたいです。ストーリー自体は比較的単純なものなのですが、しかし、この小説が読後に強烈な印象を残すのは、なによりその作者の心の底に“ふきだまった”「観念性」にこそあるのは間違いありません。

「冷たい水の羊」のストーリー

中学二年である主人公の真夫は、学校で同級生たちからいじめを受けています。いじめをやり過ごす方法として、真夫はこんな奇妙なことを考えるのが、この小説の奇抜なところです。「そんないじめは本当は存在しない」と真夫は思うわけです。

これはもちろん錯覚だといわざるを得ません。端的にいって、これは主人公の現実逃避的妄想でしょう。彼は逃げているわけです。不登校になるわけでもなく、心を病むわけでもなく、彼が行う「逃避行動」は、その心の観念性の果てしない膨脹にほかなりません。その後作品内において、その事実を白日の下に晒そうとする人物が出てきます。真夫はその「証人」を殺害しようとするに至る計画までたてようとします。常軌を逸脱しています。それは水原という女子生徒です。

水原は「いじめ」を教師に訴えようとする人物であり、つまり一般的に見て「正義」たる人物なわけですが、その「正義」を抹殺しようとする人物こそが、被害者である真夫なのです。この論理の転倒はいささかというより、はっきりおかしいわけです。彼は悪意やいいわけをしている人物どころか、なんだか頭がおかしい人にしか映りません。この「いびつさ」は、田中慎弥の描く文学の持つ「いびつさ」に一貫しており、次作の「図書準備室」では、「なぜ働かないのか?」という、一般的に「働く」=「正義」について、極限的な妄想話を繰り広げる主人公がやはり常軌を逸脱した感じで登場してきます。

「冷たい水の羊」に戻ります。

真夫は水原という生徒が自分のその〝論理〟を邪魔する存在だと思い、彼女をこの世から消し去ってしまおうと現実的に計画をたてていきます。この女子生徒への真夫の思いは複雑です。単なる「加害者的殺戮欲望」ではなく、真夫はその水原という女子に恋愛感情を抱いているようなのです。真夫は彼女を殺して、自分も死ぬと思います。その意志を固めるのは、自分の論理を邪魔する人間を排斥するということより、正当な意味での〝心中〟に似通っています。これは「論理のなし崩し」にあるように思えてくる。こうしてみると、実は真夫は頓珍漢でもなんてもなく、極めて冷静な人物だと、読者にも次第にわかってくるでしょう。

この小説に宿る強迫観念的な妄想はドストエフスキーの『罪と罰』のラスコリーニフに非常に似通っていますけれども、ドストエフスキーが描いたやはり膨脹した妄想は正義思想の実現のために、かかわりもない現場に偶然居合わせた老婆をも偶発的に殺害するという過ちを犯してしまうに至って迂回をするわけですが、ドストエフスキーが描く小説の人物たちが挑んでいるのは「欲望の掌握」ではなく、意味づけできないものの究極の行為における「行為そのものの矛盾の露呈」であることは明白です。『罪と罰』等の文学的な鍵はここにあるわけです。一方「冷たい水の羊」は先ほどいったように「論理のなしくずし」に観点が置かれています。先にいってしまいますが、田中慎弥の文学性とは、この「論理性の破壊」にこそあります。

つまり、殺すか、殺さないか。

その二者択一の自問する主人公は大岡昇平の『俘虜記』の主人公にも、最後の自害の場面から容易く想起できるように、三島由紀夫をもまた想起させてやまないわけですけれども、ぼくが思うにやはりこの小説に似ているのはドストエフスキーであり、しかし『罪と罰』ではなく、『地下室の手記』でしょう。ドストエフスキーのその作品と三島由紀夫の『金閣寺』とを対比して置いてみると、それがまったく逆のベクトルを持った志向性を呈しているのがわかるので、比較対象として面白いと思います。

ドストエフスキー的人物は現実に翻弄され、己の観念性をより豊饒化させていくのに対し、『金閣寺』の主人公は己の観念性を、寺院を焼くという行動を選択し、遂行していきます。自害した三島は一見現実に敗れたかに見えますが、実際は逆でしょう。三島は己の観念性を正当化するためにこそ死んだのです。しかし、明らかに三島文学にも影響を受けて書いたと思われるこの田中慎弥の作品は、自害した三島とはまったく逆に、ストーリーは意外な方向へと運ばれていきます。

主人公は彼女を殺しませんし、自害しようとしながらも、それすらも未遂に終わってしまいます。だからといって、ここに主人公の計画を遂行できなかった挫折感や無力感はなく、それどころか主人公を救済する一抹の希望が漂うのです。犯罪を企み、計画を遂行できなかった犯罪者の少年になぜ救済が訪れるのかが、この『冷たい水の羊』という小説の鍵であり、新しさです。

図書準備室」

田中慎弥の文学性を解読する前に、もうひとつの作品のほうも紹介しておきます。「図書準備室」は、さきほどもちらっと言及しましたが、作者と思わしきニートである主人公が、「なぜ働かないの?」と居合わせた親戚の者にいわれたとき、その場で延々とその理由をまくしたてる、という、ある種型破りな作品です。

最初私小説っぽい雰囲気を漂わせているわけですが、――実際田中慎弥という人はニートであったわけで、だからといって、この小説に現実めいた彼のニート体験記を読み取ろうとすると足をすくわれます、この作品は「冷たい水の羊」と同様、極めて「思想的」な意志に基づいて描かれた作品といってよいのです――、作者の文学的観点は「冷たい水の羊」とほぼ変わっていません。主人公があれこれいいわけめいたことを口にするのは己の自家撞着を起こした「観念」だととりあえずいってよいわけですが――それは家族、親戚、読者にさえそう見えかねない――しかし、この小説が目指して描かれていることも、「論理の崩壊」であることに間違いないのです。

図書準備室」のストーリー

母方の祖父の法要が舞台です。そこで主人公は叔母とその娘たちと出会うわけですが、叔母さんに「なぜ働かないの? やりたいことはないの? なにかそこには理由があるのか?」と訊ねられます。主人公は最初こんなふうにいいます。

 真面目に勉強したり働いたりしたら父みたいに死んじゃうって感じて。まあこれは言い訳にもならない屁理屈です。勉強以外の何かに夢中になったこともありません。やりたいことないのかって言われても、何かをやりたいとかやるとかっていうのがどういうことなのか私には全く分りません。夢とか目標がなくても不安じゃありませんし、むしろそんなものがあったとしたら大変そうでめんどくさそうで、思い浮べただけで疲れます。とにかく子どもの時から何もしませんでした。

これは叔母さんの質問に対する主人公の、というより率直な現実的な作者の解答といってよいでしょう。実際田中慎弥の実父は彼が小さい時に亡くなっており、彼がニートでいられた理由はこの小説に出てくるのですが、母親がとにかく仕事人間であった夫のように息子を死なせたくない、と思っているためです。

少し余談ですが、作者がデビューしたとき、彼は32歳であり、高校を卒業以来、それまで一度も仕事についたことがない、アルバイトさえしたことがない、と新人賞のインタビューで記されてあったのを読んで、ぼくは驚きを隠しきれませんでした。しかし、作品を読み終えたあと、そんなことはなにも関係がないことだ、とぼくは思いました。田中慎弥とい う作家は真っ向から自分の生と対峙していると、その作品を読んでわかったからです。

図書準備室」に関していえば、いじめが原体験としてこの作者にあったのかも関係がないことであり、当時の新人賞の選評において、そのような選 考委員たちによる議論もあったようですが、たとえば「冷たい水の羊」という作品は単に中学生のいじめの話ではなく、「暴力」に対するひとりの人間がとる「ひとつの姿勢」を描いた小説なわけです。この「いびつさ」は、次作の「図書準備室」にさらに大いに発揮されていくわけですが、選評で、選考委員のひとりであった福田和也氏が、この題 材と作者の年齢が違ってどうかという意見があったが、作品そのものが作者にとっての現在形の問題なので気にならない、といっていて、まさしくそのとおりだとぼくも思っています。

図書準備室」においては、やがてこの作品の核となるエピソードにあたる人物が出てきます。それは吉岡という人物です。彼は主人公が当時通っていた中学の教師でした。

この作品が面白いのは、「なぜ働かないのか?」と訊ねられた主人公が、「自分はなぜ教師にあいさつをしなかったのか?」という話題へと論点をずらして、それを説明しようとしていくところです。ずっとぐだぐだと叔母にしゃべっているわけです。これは「いいわけ」のようにやはり見えます。「冷たい水の羊」のような論理のすり替えに非常に似ています。しかし、主人公にとって、中学のときのその吉岡先生との邂逅は、生涯最大の事件だったのは間違いはないようで、そして確かに「自分が働かない」その本当の理由がそこにあるものにほかならないことがわかってきます。さらに主人公はこういいます。

 何でほぼ毎朝通学路で教師と顔を合せないといけないか、何でこっちも向うもあいさつしないのか、これはいくら考えたって理解も納得もできません。ひたすらあいさつしない日々、それの延長がいまの生活ですねえたぶん。ニュースとか新聞では私みたいなのは、単に怠けてるとか日本が豊かになりすぎた証拠だとか不器用なんだとか立ち止まって道を探してるんだとか、言われてます。解決するにはまとめて自衛隊に入れて海外の戦場で働かせればいいんだ、なんていうのもありますが、戦争に行ったって私が吉岡にあいさつしなかった事実は消えませんよ、死んでも。

ここにおいて現れているのは、「論理性の崩壊」です。「冷たい水の羊」が単なるいじめの話ではないように、この「図書準備室」も単にニートの話ではないのです。

 田中慎弥の文学性

そもそも「観念」とはなんでしょうか。それはどこにも「現実」的着地点を求めることができずに人物の内部に言葉とならずにとどまる「淀」のようなものです。言葉を吐きだしますが、それは確固たる言葉にはなりえません。「図書準備室」の主人公がとにかくあれこれいいわけを繰り返すのは、溢れんばかりの言葉を持っているにほかならないからです。正確にいうならば、その自分の抱いている思いが言葉にならないためです。日本の近代小説に通じている人ならば、すぐに戯作者としての石川淳らの作家の名前が思い浮かぶと思います。実は作者はこの「錯覚」を借用して、現実の論理を転倒させようとしているのです。

「冷たい水の羊」において「証人」である女子生徒の殺害計画をたてる主人公は、自身の行為を意味づけるためにそうしようとするわけですが、「図書準備室」においては、射程は他者に向かっています。もちろん母親の金でただ酒を飲んでいつまでも働かないでいるのは一般的にはよくないことでしょう。しかし、それは 「文学」とはなんの関係もない問題なのです。田中慎弥という作家の文学的出発点は、自身の「観念」を「現実化」しようとする行為だったといえると思います。しかし、それを遂行しようとした瞬間、偶発的に現れた現実的な「死」によって、彼は「観念」としての死の崩壊に出会い、意志を失ってしまうに至ります。彼はデビュー作にあたる「冷たい水の羊」で、書くことはもうなくなった、と当時思ったのに違いない、とぼくは確信しています。

水原という彼女の家から死間際の人物が救急車で運ばれる現場に出くわしてしまうこの最後のエピソードは、単なる殺人行為に邪魔が入った突発的出来事という事態ではありません。「突然」であるということは、まさに現実であり、そのことが彼を畏怖させているわけです。彼はこのとき「現実」に立ち会っています。

図書準備室」での吉岡先生とのやりとりもまた同じです。自分が働かないことを正当化しようとするように、最初自らの過去を振り返り、ああだこうだいいながら、やがてあの頃の教師に朝挨拶しなかった話を彼は持ちだすのですが、これは一見自分を正当化しようとするように見えますが、彼は単に理由を問われたからこそ、回答をしているだけなのです。これはまったく余談ですが、1980年代にイギリスにザ・スミスというバンドがいて、そのヴォーカリストであったモリッシーもバンドをやる前にひきこもりであった過去を持っていたわけですが、そのバンドの「スティル・イル」という歌に、こんな歌詞があります。

なぜって、君は問うの? だったら、ぼくは死んでやる。

田中慎弥の文学性はこのモリッシーの思想に非常に似通っているとぼくは思うんですよね。「図書準備室」では、自らの側から、問うた相手に対してその問いの論理性の根拠のなさを暴きたてようとしています。「結局御託を並べて親のすねをかじっていたいだけだろう」といわれたなら、先に書いたとおり、それは事実です。主人公は素直にうなずくしかないです。彼は社会的にはいいわけのできない人間です。でも、果たして人間としては本当にダメなのか? 人間はそれだけのものか? ここで主人公がいいたいこととは、先に引用した部分のように、自分が働かない理由がわからない、ということから出発し、だからなのか、だからこそなのか、ここは曖昧なわけですが、彼には持ち得ているものがあって、それは「なぜ働かないのか?」という論理がなんら根拠がある言葉を持っていない、ということをいっているのです。

田中慎弥というまったく新しい作家

田中慎弥は受賞時のインタヴューで、「冷たい水の羊」の主人公は最初自殺する予定だったが、書いているうちに、主人公を殺せなくなった、といっています、なぜだかわからないけれども……と付け足して。この小説の成功は、まさしく、この曖昧さにほかならない、とぼくは思ってやみません。田中慎弥という作家の資質とは、この“曖昧さ”にほかならないと思います。

図書準備室」においては、現在形である「社会的正当性」が、「戦後」という枠組みを突き破って、「個人的論理」によってなし崩しにされていく過程が書かれています。彼の作品は、ほかにもこのような“いびつさ”“曖昧さ”が横溢しています。それは「なぜ働かないのか?」というように彼を極限的に追いつめてくるわけですが、それは同時に、作者の内に宿る「観念」と同時に、その「現実」をも崩壊させていくのです。

「冷たい水の羊」では、主人公は自分の行為より、圧倒的な「運命」の現場を目撃してしまい、身動きがとれなくなってしまいます。「直接的な死」が、「観念 の死」に纏われ、自身のいびつな論理が内側から済し崩しに壊れていきます。自分がやろうとしていたことは運命でもなんでもなかったことが彼の手に掌握されるのです。彼が想像した生温かいと思っていた決定的な死は、その実際の即物的な死とは対極にあるものとして彼を打ちのめしてしまいます。「冷たい 水の羊」は主人公の内側の論理を崩壊させる小説であり、「図書準備室」は相手の、その一般的な論理を崩壊させる小説だといっていいです。「冷たい 水の羊」から「図書準備室」に繋がることで、作品は別の次元へと小説そのものが押し上げられることになったとぼくは思っています。

21世紀の作家としての田中慎弥

田中慎弥の登場はひとつの文学的事件だった、とぼくは今でも思ってやまないんです。

彼が登場したのは2006年です。「凄い作家が現れた」といって、周囲に吹聴しました。このときぼくは文芸関係の出版社に出入りをしていた頃で、編集部に「新人の作家で面白い作家はいますか?」と聞かれたことがあって、田中慎弥と、やはりちょうどこの頃登場してきた宮下奈都をあげていました。「知らないなあ」っていわれましたね笑。まあ、おまえら皆死ねよ、と彼らに対してぼくは心の内でひっそり思いましたが笑。まだ彼らは登場したばかりの頃でしたが、その後の活躍をぼくは決定的に確信していたわけです。

ひとついいたいのは、彼の登場が契機となったとまではいいませんが、たとえばそれ以前から車谷長吉中村文則ら、ふたりとも「新潮」出身の作家ですが、あるいは西村賢太らなど、彼らは皆いささか時代遅れ的なあまりに文学的なといってもいい硬質な作品を書いています。少し前の時代なら考えられなかったことです。宮下奈都の文学もそうで、田中慎弥とはずいぶん性格を異にしますけれど、そこに書かれてあるのはある種の懐古主義的なリアリティーです。それ以前はエンタメと純文学を越境するような文学がもてはやされ、その一昔前は村上春樹に代表される現代アメリカ文学に影響された軽妙な小説が読者に親しまれていました。それらへの反動が現れたのです。

これは政治的にはリベラルな時代から保守的な時代へ、文化的に、大量消費の時代から良質な時代へ、と日本が大きく変化していった性格とも重ね合わさっているとぼくは思います。ぼくは田中慎弥の小説を読んでひとつの時代の転換を感じたのです。この主人公と同様救われたと思ったことも覚えています。実際にこのような作品を書いている人間がいつもどこかに必ずいるのだ、ということがぼくを「救済」したのです。

もう少しだけ書きます。

「冷たい水の羊」の真夫の妄想が、ドストエフスキーの描くラスコリーニフ同様、殺人自体に欲望があるのではなく、その妄想を掻き立てられた禍々しい論理の露呈にあることが作者の意図だとぼくはいいました。それは、書く過程、読む過程において、まさしく育まれていくものであり、ラスコリーニフは実際に人を殺し、田中慎弥の「図書準備室」においては、実際にこの作品には三島由紀夫の名前が登場するのですが、三島は現実的に自害しました。「冷たい水の羊」の彼は殺さず、自害もせず、いや、彼は最初から殺す気はなかったんじゃないか、とも考えられますが、それも違う、とぼくは思います。

彼は殺そうと思わずにはいられなかったし、実際に殺人計画を立てたのは確かです。ぼくは田中慎弥という人間は、ドストエフスキー同様本当に殺害計画を現実的に考えたこともある人だったかもしれないとも思っています。しかし、ニートやいじめについて先述したことと同様、そんなことが彼の文学性を貶める事態になどまったくなりません。彼がその観念が育まれる“曖昧さ”や“いびつさ”という逡巡した過程で遭遇したことが〝現実〟にほかならないということがなにより重要なことなのです。それは何がしかの意味を彼に与えずにはおかなかった。まさしくそれは生であり、文学でしょう。彼に殺害を思いとどまらせたのは、まさしくこの点なのです。「冷たい水の羊」の最後はこんなふうに描かれています。

それはある雪の日です。水原の家に一台の救急車が現れます。運び込まれるのは、瀕死の水原の父です。主人公はそのとき妙な感覚を覚えます。彼はそれを「運命」というのです。このとき日本の近代小説はまた新たな息吹を吹き返したというのは、いいすぎではない、とぼくは思います。

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