傷口にはウオッカ 大道珠貴

僕が大道珠貴でいちばん好きなのが『傷口にはウォッカ』(2005)という作品です。彼女が2003年に芥川賞を受賞したとき、その受賞作の「しょっぱいドライブ」はけっこう一般的には酷評されたみたいですが、以来僕はたちまち大道文学の虜になりました。それからずっと新刊が出るのが待ち遠しい作家です。まあ合わない人は合わない作家かな、と思います。読んだ人ならわかるでしょう笑

傷口にはウオッカ (講談社文庫)

傷口にはウオッカ (講談社文庫)

『傷口にはウォッカ』のストーリー

主人公は四十歳になる永遠子です。十三歳のときに初めてセックスして以来、自慰ばかりしています。その自慰も最近はだんだんなんとしなくなってきているみたいです。彼女は実家を離れてひとり暮らしをしています。寿一郎という刺青を入れた恋人がいます。彼とたまに会ったりしてなんとなくのその日暮らしをしています。週二回清掃の仕事はしているらしく、これまでも化粧品の仕事や薬局のバイトやらなんやらいろいろ職歴にまつわることも書かれてあるんですが、基本的にはだらしない生活のようです。
実家はさほど金銭的には不自由していない家柄のようで、永遠子はそこから援助があるようです。作品半ばに多くページが割かれてあるのは、それらのだらだらした彼女の生活のほかに、中学時代の友人万葉さんとのエピソード、さらにそこにサナエという女友達のこともからんできます。
痔の手術をしたり、体重増で足が悪くなったり、歯のこととか、病気にまつわるエピソードとかが、さらに作中にたくさん出てきます。それらは病気というより、体に関わるもの、といったほうがこの小説においては的確でしょう。

〝傷口にはウォッカ〟というこのタイトルに冠された言葉は、最初のほうで彼女が傷口にウォッカをプーッと噴射するシーンがあって、そこからとられているんですが、最後のほうでもう一度出てきます。この箇所は、この病気とかセックスとか自慰とか女友達のこととかがぐだぐだに書かれただけのこの小説がいったいなにを意図したものなのか、その核心をいっている大事なものだと思うので、引用します。

 弟の、あの純粋さは、なんだろう。
なんだか悔しい。
弟のそばに、わたしだって、いたい。
弟を、見ていたい。
合宿から帰って来たときの、焼けた顔で玄関先に立っていた弟。そばに並ぶのさえ、意識した。
ごはんをよそうのだって、わたしがその役目をずっと引き受けたいほどだった。かいがいしくしたかった。
でもわたしは彼を避けた。彼もだ。
この先いつだって、かまわない。きっとずっと、好きなんだろうから。いつだっていいから。ばあさんとじいさんになってでも、いずれ、いっしょに、暮らしたい。わたしが暮らしたいのは、弟なのだ。
棚にあるウォッカをとり、わたしは胸の奥の痛みをもっと奥に押しこむように、ラッパ飲みする。
なにを興奮しているんだろうか。
「きょうだいなんやから、会いたければ会えるんだしな」
そうつぶやいてみると、気持ちが少々静まった。わたしの中年の声は、あからさまに現実に引き戻してくれる。
ああ、ぜんぜん自慰がしたくない。あれをすれば気休めになるのに。
弟のことを考えている今、体がまったく、反応しない。欲情しない。
胸の奥ばかりがキリキリ痛む。
そんなところの傷なんて、治るはずがない。ウォッカを流しこんで、傷を確かめているようなものだ。
(『傷口にはウォッカ』  大道珠貴)

この小説には実はひとつの大きなストーリーの軸があって、主人公の永遠子は実の弟にプラトニックな恋心を抱いているのです。しかし、この近親相姦的な横恋慕は、罪意識的なものや、未成熟的な性質とは違っているのは、特筆すべきことです。彼女が弟を好きなのは、彼が単純にピュアだからです。正確にいうと、弟がピュアな性格なのかどうかは関係なく、彼女がそうなろうとする「純粋性」への憧憬が、彼への愛情と密接に繋がっているためです。彼女の肉体への関心もすべてそこに要因があるのです。
こんな描写もあります。

こっちは最初の〝傷口にはウォッカ〟が出てくる下りです。

 しびれたり、痛さを我慢したり、堪え忍ぶことが、わたしは好きだ。
注射や歯医者も、子供のころから好きで、わくわくした。インフルエンザの注射のあの痛みには、背筋がぴんと伸びて脳天まで貫かれたようになった。風邪をひいてお尻に打ってもらう注射も、よかった。やわらかい肉を医師がよくもんでから、ぶすりと針を刺し、針を抜いてまたもむ、その痛みはお尻全体に広がっていき、しばらく起きあがれない。痛みを堪え忍ぶのがたまらなかった。
(中略)
このくらいの痛みでは、あますぎる。気にしなければなんということはない。
「そうだ、いいこと思いついた」
包帯をほどく。ウォッカを口に含んで、傷口にプーッと噴射してみた。
きのう、銭湯の帰り、電柱につながれていたマルチーズを触ったら、手を噛まれたのだ。
おおうぅ、とこころのなかだけで叫び、のけぞって、怪我をしている手を股にはさむ。
「――思ったより、痛くないやんか」
がっかりだ。
歯形の跡を見てみる。犬歯で噛まれたところからだけ、血がにじんでいる。ちっぽけな傷だ。
「もうちょっと、なか、見てみたいね」
そばにあったボールペンで、穴をほじってみた。肉がのぞく。吐き気がした。ああ、ずきずきする。ばかだ。
しかし、衰えていた生命力が、よみがえったようではある。
やっと、ウォッカがしみこんで、痛くなってきた感じがする。目尻に涙が浮かぶ。鼻水まで出てくる。
「これからもときどきこうして精神を鍛えたいねえ」
と負け惜しみみたいなことをつぶやく。
(『傷口にはウォッカ』 大道珠貴)

ここに描かれてあるのは最初の「ウォッカ」の場面同様、単純にマゾヒズムですが、永遠子が痛みに幸福感を覚えるのは、絶対に手に入らないものと対峙したときに覚える痛みと通底するものがあることがわかります。

「痛み」そのものがもちろん好きなのじゃなく、先ほどいった「純粋性」を希求する際に訪れる「痛み」を惹起させるために、肉体に痛みを起こさせているわけです。「純粋性」は永遠に手に入らないことは自覚されており、それは手に入らないゆえにその存在性を保持しているともいえます。彼女は永遠に「永遠子」なわけです。
近親相姦が禁忌なものであるという現実が=純粋さの不可能な象徴として用いられる問題をまな板にして、この『傷口にはウォッカ』という作品は書かれています。それは手を伸ばせば届くところにあるものなのに手に入れることができない。それが弟という関係性として現れていて、せつないのです。
肉体に関するたくさんの描写、病気にしても、性にしても、それらはとにかく人物たちのその永遠性とピュアさと親密に関係があるものです。肛門に執着するこの作品の主人公はとても繊細な感受性を宿しているのは明らかです。「異常性」を偏愛する性癖とは根本的に異質なものなのです。

大道珠貴の文学

大道珠貴は処女作の「裸」(『裸』/大道珠貴 文春文庫 所収)以来、一貫してこのようなあけっぴろげな女性の性の内に潜む感受性を表現してきました。一見、男勝りというか、性にだらしないというか、大酒を飲んで、ぜんぜん女性っぽくないし、単に自分勝手なだけなんじゃないかというふうな人物たちが次々登場してくるわけですけれど、彼女らはとても複雑な神経を持った魅力に溢れた人物たちなのが、読んでいくにつれだんだんわかってきます。

内心はとても弱く、誰かにすがりたくてどうしようもなくて、孤独が苦手なのです。
女性的というのは「社会化」された女性を見てそう感想が湧き上がっているものに過ぎなくて、その「社会化された女性像」というのは男性が作りあげた「幻想」に過ぎず――正しくいえば男性と女性が契約の上に成立させた幻想です――そこにプリミティブななにかが惹起されるとき、本当の女性的というべき本能が如実に表れてくるのを、大道珠貴という作家は知っているように思えます。彼女は「痛み」を通して、それを現そうとしているわけです。

彼女はそういうことを描こうとする作家です。「言葉」を越えていく肉感的でプリミティブなものに人間の本質を見ようと、そうして文学に描こうとします。

※                    ※

あらゆる化粧や仮面、文化とか社会的価値観というものを拭いとったところに剥き出しにされる人間の本質を描く。そこに登場する女たちは皆自分に正直であり、純粋で、悲しみを宿しています。「社会化」された男性性に隷属する存在を拒絶して、本来の自分や女性に帰ろうと常にする彼女らは、自分勝手にどこか見えますけれど、同時にとても人間的だから、魅力的なのです。
女性であること、人間であることの無上の幸福感と悲しみが、大道作品には溢れています。せつなさとユーモアが炸裂したこの『傷口のウォッカ』は文句なしの傑作です。第15回Bunkamuraドゥマゴ文学賞をこの作品は受賞していますが、そのときの選考委員が富岡多恵子だった、というのは、さもありなんです。
とにかくはまると、脱け出せない作家です。僕は彼女の著作は全部買って、本棚に飾っています笑

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