運命ではなく ケルテース・イムレ

今回紹介するのは、2002年にノーベル文学賞を授与された、ハンガリーの作家、ケルテース・イムレ(1929~2016)の小説『運命ではなく』です。日本の出版は2003年、惜しくも2016年にイムレは亡くなりましたが、これは彼の処女作で、執筆に13年の歳月がかかり、出版してくれる版元もなかなかなく、という状態で、長いことお蔵入りのお宝だったんですが、実はぼくも長いこと積読状態で、でも、なんとなく手にとったら引き込まれてしまい、最近一気に読んでしまいました。読み始めたら、とにかく面白い。ページ数もp300弱で、一日で読める分量です。なによりこの本で強調したいのは、語られている内容がとても易しい、ということです。ネットで検索していも、イムレのこの著作に関しては、そういっている方が多いです。内容は第二次大戦下のユダヤ人強制収容所と、重たい題材なんですが、扱われている文学的ロジックがすごく単純なものなので、ぼくは読後、えっ、これがノーベル賞? と思ったくらいです。

でも、敢えてこの小説作品の記事を書くのには理由があって、このような手合いの文学は基本中の基本で、過去の日本の近代小説もけっこうあったんです。でも、昨今はまったく見られなくなってしまいました。これはやはり日本の小説が終わってしまった明らかな証拠にほかならないでしょう。でも、逆に考えれば、これから小説を書く人は、こういう小説からはじめていってもいいんじゃないか、と思うわけです。原題は『運命ではないこと』であり、このタイトルがそもそもこの文学作品のテーマを端的に示しています。

運命ではなく

運命ではなく

ストーリー

作品はイムレと思しき主人公が、戦時下のブダペシュトで、工場勤務に駆り出されていたある日突然、いつものようにバスでの通勤途中にドイツ人の警察軍に捕獲され、ほかの同じ少年労働者たちといっしょになにもわからないまま列車に乗せられるところからはじまります。向かった先は、アウシュビッツでした。ユダヤ人指導を任せられている囚人が、14歳の主人公に「16歳以上だと偽れ」と耳にささやきます。サイズの合わない囚人服に、踵のもげてしまう木靴、粗末な食事と、どうしようもない喉の渇き、毎日の苛酷な労働。彼は近くの建物の煙突から黒煙が舞い上がっている光景を見ます。それが自分たちの同朋を焼いているということを知ります。アウシュビッツから、ブーヘンヴァルト、そしてツァイツへと収容所を彼は移っていくことになるわけですけど、彼は膝の怪我が原因で幸運を得たともいえるし、一方、却って強制収容所における真実を見た、ともいえます。中盤で極限状況が苛烈になっていくストーリーがこの小説における、最大の読者を引き込む見せ場でしょう。彼は無事生きながらえて、祖国に帰郷できます。たからこそ、こうして作品を発表できたわけですが、帰国してからの主人公の感慨は、読者をはぐらかすものです。これまで無数に発表されてきた、ユダヤ人強制収容所を題材にした小説や映画と一線を画すものが、この作品にはあります。

『運命ではなく』における文学性

たとえば、主人公は強制収容所で体験したことを次のように、文字通り現在進行形の視点で、書いています=思っています。

 強制収容所におけるいくつかのものごとは、実際にそこに入った人でなければ充分理解はできないのだということは伝えておきたい。(中略)たとえば、こんなに早く僕がしなびた老人になるなんて、まったく思わなかった。ハンガリーにいたら、そうなるには時間が必要で、少なくとも五十年、六十年かかるのに、ここでは、僕の肉体が僕を見殺しにするのに三ヶ月もあれば充分だった。自分のからだがどれだけ壊れていくかを毎日まいにち観察し、毎日まいにち考えること以上に苦痛で、気がめいることはないとだけは、言っておきたい。

彼は刻々としなびていく自分の体を見るのがいやになり、シャワーを浴びる日課を放棄してしまうに至ります。これは端的に収容所における、彼の、心の変化、ある種の悟りともいっていいと思いますが、さらにこんなことも収容所で思います。

 とにかく、それまでの僕には、まったく理解できなかったり、まったく思いもよらなかったことが存在するのだと言うことができる。たとえば「亡骸」という、何度も耳にした言葉は、誰か亡くなった人にだけ使う言葉だった。けれども、僕に関して言えば、まだ生きていたし、たとえちらちらと、ランプの芯の最後の炎がゆらめいているみたいだとしても、僕の中では、言わば、生命の炎のようなものがまだ燃えていたことは疑いようがなかった。(中略)けれど、もはや僕の心まで届くものは何もなく、何もかもがどうでもよく、何かに心を動かされることもなかった。それどころか、今までにないくらい心も軽く、平穏で、まるで夢を見ているような気分だった。はっきり言って、これほど居心地がよかったことはなかった。こんなに時間が経って、やっと初めて激しい苛立ちに苦しむことから解放されたのだ。僕のからだにくっつく他人のからだはもう気にならなかったし、それどころか、彼らがここに僕と一緒にいてくれること、そして、僕のからだと瓜二つみたいであることが喜ばしかった。今初めて、僕は彼らのからだに対して、ふだんとは違う、正常とは言えない、ぎこちなくゆがんだ感情のようなものを感じた。これが愛情かもしれない、と僕は思った。

極限状況における彼らの「連帯感」は、己のエゴを剥き出しにするどころか、日常以上の他人への奉仕の愛を目覚めさせるのです。この作品において、もっとも印象深いのは、実は強制収容所の場面ではなく、無事ブダペシュトに帰省した際の場面でしょう。戦争が終わり、家に帰ろうと、町の路面電車に乗りこんだ彼は、切符を買うお金がないことから、無賃乗車で車掌に列車を下されそうになるのですが、助けてくれる人物が登場します。少し余談ですが、この場面で、彼が悲惨な体験を潜り抜けてきたことを理解したにも関わらず、そっぽを向く夫人が描写されるのですが、この対比描写がみごとです。しかし、読者はつづくその助けてくれた記者と主人公とのやりとりで、予期した心象をはぐらかされることになります。

一年ぶりに主人公は家族がいる故郷に戻ってきたわけです。記者は「故郷に戻ってこれた、君の率直な今の感想を聞かせてくれ」と聞くのですが、彼は「憎しみ」だと突飛な答えをします。

記者は、この歴史上最も凄惨な極悪非道の事実を、世界に向けて知らせるべきだ、と彼に切々と訴えるわけですが、彼は記者の言葉にピンときません。「そこでどんな地獄を見たのか?」と記者は畳みかけます。主人公はうんざりします。連絡先を書いたメモを渡されるのですが、記者と別れたあと、彼はそれを捨ててしまいます。

最後に、もうひとつ重要な場面をあります。この小説が、ただそれだけの小説ではないのは、彼と隣人の老人たちとのこの最後の場面があるからにほかならないでしょう。ここがこの小説の最も肝心な場面です。

 そして「何よりもまず、恐ろしい体験を忘れなくちゃいけない」と言うのだった。ますます僕は驚いて、「どうして?」と質問した。彼は「そりゃ、生きることができるようにな」と言うと、フレイシュマンさんもうなずき、「自由に生きられるようにな」と言うと、もう一人の老人がうなずきながら、「そんな重荷を背負ってじゃあ、新たな人生が始められない」と付け加え、確かにそうかもしれないと僕も思った。(中略)僕の体験が恐ろしいことだとは気づかなかったと付け加えると、彼らはとてもびっくりしたようだった。二人は、〈僕が気づかなかった〉というのはどういう意味なのか、知りたがった。それで、逆に僕が二人に、〈大変な時期に〉いったい何をしていたのかと質問した。「そりゃ……生きていたさ」と一人は考えこみながら、言った。「生き延びようとした」ともう一人が補った。

この後、主人公は「生き延びようとした」ことは、同じことなので、自分がアウシュビッツでどのように「生き延びようとした」のか、それを説明しようとするわけですが、二人の老人には主人公のいっている意味が分からない。

 僕は、別に特別なことじゃない、そういうことはただ向こうから〈きた〉だけではなく、僕たちも進んでいったんだということを言いたかっただけなんだと答えた。ただ、今になってみると、あらゆることが終わってしまっていて、変えることができないように見える。取り返しがつかず、こんなにあっけなく、こんなにひどく漠然としたもののように感じ、あらゆることはただ単に〈きた〉ように見える。今、こうして何もかもが終わった時点から振り返り、逆の方向から見るから、そう見えるだけなんだ。

主人公=イムレはいったいここでなにを語っているのか? ぼくが邪推するに、帰省するまでの叙述は、実際に彼の記憶そのままで、列車での出来事からは彼が想像したフィクションだ、と思っています。老人たちに主人公はいいます。自身が体験し、目撃したの真実を。記者はアウシュビッツでの地獄体験のことを主人公から聞きたがりました。老人たちはこれからの未来のことを聞きたがっているわけです。しかし、主人公は「時間」について述べている。彼が老人たちにしゃべっているのは、まったく抽象的な「時間論」です。両者がかみ合わないのは当然です。いったいこれはどういうことか?

「振り返るのであれ、前を見つめるのであれ、その両方とも間違った見方だ」と主人公はいう。彼がこだわっているのは「時間」、さらに詳しくいえば「段階」です。「ユダヤ人であることは僕にはまったくの偶然で、脱線だとか、あるいは本当は何も起きなかったんじゃないかといってかたづけられるのには、もう今となっては我慢できないのだ」ともいいます。「もしすべてが運命でしかないなら、自由などありえない、その逆に、もし自由というものがあるなら、運命はないのだ」とも。

イムレはこのとき、正しい意味で、「自由」を勝ち得た、――それも強制収容所という場所で!――といっていいと思いますが、たとえば、この主人公の感慨を、苛酷な状況に出会ったことをなかったことにすることはできない、だから、それを考えようともしてくれない相手に対して腹を立てている、とみなすのは、決して誤った見方ではない、という意見はとりあえず前提としておくべきだと思います。主人公の「起点」は、実際そこにあるわけですから。ただ、この小説がそれだけの小説に終わっていないのは、その先のことについて作者の筆が伸びていることなんです。

※          ※

ここには極限状況を知らない「一般人」を代表する記者が望むような、告発、はもちろん見られないですし、本来卓越した知識と経験を備えたはずの老人たちが諭すような「つらいことを忘れないと前へは進めないよ」という希望的観測も語られない。

ぼくがこの小説を読んで、すぐに似たようなものを描いている、と思い浮かんだ日本の小説は、武田泰淳の「ひかりごけ」です。当ブログでもレビューしているので、興味がある方は是非。「ひかりごけ」とは状況は違いますけれど、同じように、戦時下の極限状況を体験した当時者と、それを傍から見ていた傍観者たちとの対立を描いた設定は似ています。或いは、大岡昇平の『俘虜記』も、通底するテーマがあると思います。『俘虜記』では、捕虜された収容所でそれに慣れていく兵士たちの日常以上に日常すぎる生活が描かれているわけですが、なぜ敵兵を主人公が撃たなかったのか? という命題からはじまるこの戦記小説は、――大岡昇平はそれを完全に突き詰めずに、放棄しているとぼくは思いますが――個人、というものに着眼点を置いています。

イムレの『運命ではなく』という小説は、「現実とはなにか?」「人間とはなにか?」を描いている作品だといえばいえますけれど、そこに横たわっている真の命題は、経験を踏まえのて個人の観点です。「一般論」の視点は皆無であり、誤解を恐れずにいえば、題材が「ユダヤ人強制施設」であるだけの話で、ナチスの残虐非道な行為への訴えも、ユダヤ人の悲劇的運命も、地獄の体験記も、人間の愚かさも、一般の読者が期待するものは、なにも描かれていません。帯には、「強制収容所の幸せについて、僕は話す必要がある―。」と書いてあります。イムレは、これまでの強制収容所の小説のほとんどが、回想的に描かれてあることに納得がいかなかったため、この小説を書いた、といっており、この小説が当時14歳であったイムレ自身の少年の視線を通して描かれるのはそのためです。この小説は回想記ではない。この小説のテーマは「時間」なんです。

『運命ではなく』が描きだしているもの。

たとえば、主人公は強制収容所において、15歳以下の少年、老人、病気、つまり労働に不向きであると認識させられた囚人はガス室送りになることを知ったため、最初は懸命に労働に勤しみます。死を逃れようとし、そこに己の威厳さえ見出そうとします。次に、労働に耐えられなくなった彼は、どうやって手を抜くか、を覚えはじめ、やがては点呼のときに、立っていられなくなって座りこんでしまうことも平気でするようになっていきます。もちろんそんなことをしたらドイツ兵に殴られるわけですけども、殴られている時間を耐えていればいいのだから、というのです。これは「段階」を経て、彼が陥っていった=成長していった事柄です。収容所では、それまで当然だと思われていた、人間としての模範的態度、秩序、道徳などはまったく役に立ちません。ここで剥き出しになるのは、ひたすら個人としての「自我」なわけですが、これまたよくあるパターンのように、そのような極限状況になったとき、人間のエゴが肥大化して、欲望が暴走して、人間の葛藤がはじまるか、といえば、まったくそんなことにもならない。それらはすべて本当の地獄を体験しなかった傍観者の「妄想」に過ぎないんです。映画でも小説でも、そんなものはこれまで無数に作られている。なぜそんな嘘偽りがまかりとおるのか、そして鑑賞者はそれに感動して、反戦、などを肝に銘じるのか。もちろんイムレはそれに異議を唱えてこの小説は書いたわけではありません。あるものは歪曲されて描かれてあるし、欠落している最大のものがある、といっている。それは「時間」だ、とイムレはいっているわけです。

つまりここに描かれた強制収容所の叙述、描写とは、イムレただひとりが実感した「ユダヤ人虐殺の真実」であり、彼はここでナチスや戦争を非難など、どうでもいいといっているわけではないですけれども、あらゆる反戦創作物にこめられた、そこに仕掛けられている「時間」というものの作為性を訴えているわけです。

小説の最後はこう書かれています。これは大変感動的です。

 僕たちには、当然、乗り越えられないような不可能なことはないし、僕の行く道に何か避けられないわなや幸せが僕を待ち伏せしていることももうわかっている。だって、まだあそこにいた時にすら、煙突のそばにだって、苦悩と苦悩の間には、幸福に似た何かがあったのだから。僕にとっては思い出として、たぶんその体験がいちばん深く残ったものなのに、誰もが嫌な出来事や〈恐ろしいこと〉しか訊ねてくれない。そうだ、いずれ次の機会に誰かに質問されたら、そのこと、強制収容所における幸せについて、話す必要がある。

もちろん、質問されたらのこと。そして、僕自身が忘れてしまわなければ。

時間をめぐる考察については、ドストエフスキープルースト、フォークナーなど、多くの優れた作家たちも、これまで書いてきました。こう最後に綴られた文章に、真の希望を抱くのは、果たしてぼくだけか?

フェイトレス~運命ではなく~ [DVD]

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映画化もされました。未見です。

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