草の竪琴 トルーマン・カポーティ

戦後アメリカの「南部作家」を代表するひとり、トルーマン・カポーティの二作目にあたる長編小説。処女長編の『遠い声 遠い部屋』(1948)の幻想風味な作品とは打って変わって、牧歌的な雰囲気に包まれた、とても心温まる小さな愛の物語。

草の竪琴 (新潮文庫)

草の竪琴 (新潮文庫)

 初期の短編、処女長編の『遠い声 遠い部屋』について

この二作目の長編作品『草の竪琴』(1951)はほとんどカポーティの南部で暮らした頃の自伝的な風景を、フィクショナル化した小説といってよいです。同じ自伝小説である前作の『遠い声 遠い部屋』の暗いゴシック調の面影、かつ難解な印象は少しもなく、凝りに凝った文体でもなくて、メルヘンチックかつオーソドックスな形式で、彼のキャリアの中では地味な小説といってもいいかもしれません。

カポーティ作品にとって重要作は、先にあげた処女長編のゴシックロマン調の『遠い声 遠い部屋』、オードリー・ヘップバーン主演の映画化でも有名な 『ティファニーで朝食を』(1958)、そしてノンフィクション・ノベルという新たなジャンルを確立した渾身の傑作『冷血』(1966)の三つといっていいでしょう、実際カポーティ自身その三作が自分の達成作品だといっていますし。ただ、僕が一冊挙げるなら、初期の頃の短編集を集めた『夜の樹』(1949)です。ここには処女長編の『遠い声 遠い部屋』と、二作目の長編『草の竪琴』の原型となる、彼のよくいわれる「昼の顔」と「夜の顔」の両面的性格の作品が揃って網羅されており、後に彼は早々とそれらの培った技法を捨ててしまいますが、僕は決して彼が俗にいわれるようにカメレオン的変化を遂げていった作家だとは思ってはいなくて、書いている文学的本質は、その初期に描かれた『夜の樹』から変わってないと思っているのです。

両面的性格というのは、NYを舞台にした都会的小説と、南部を舞台にした田舎の小説、ともいえます。この内容についての詳しいことは、後に述べます。

結局『遠い声 遠い部屋』とどっちにしようか迷ったんですが、南部の体験を元にして描いた、『草の竪琴』をレビューすることにしました。個人的に思うのですが、この小説こそ最もカポーティ自身の性格を率直に映しだしたものとなっているように思えてならないのです。先にあげた三作は確かにその「技法的」に文学的な達成かもしれませんが、僕はそういう観点で文学作品には触れませんし、カポーティが最初に持っていたゴシックロマン風の衣装を捨てても、この『草の竪琴』に描かれた南部的小説を、その後も一貫して描きつづけた姿勢からも、この著作が彼の文学的源泉だと思えてならないわけです。さらにその原型は『夜の樹』に収められた、「誕生日の子供たち」(1949)という素晴らしい短篇作品にも、その姿勢が明らかですし、なにより直截にカポーティの「無二の親友」である六十歳になる従妹との出来事を描いた「感謝祭のお客」(1962)や「クリスマスの思い出」(1946)にも顕著だと思います。

まず、初期の頃に彼がどのような小説を書き、文学を構築していったのか、ざーっと言及しておきます。ちょっと長いですが、カポーティは僕にとって、とても特別な作家なのです。

夜の樹 (新潮文庫)

夜の樹 (新潮文庫)

初期の頃のカポーティの業績は、先述した『夜の樹』(1949)において読むことができるわけですが、繰り返しますが、ふたつの軸によって、その小説は描き分けられています。NYを舞台にしたイマジネーション豊かに描かれた都会派の小説と、南部を舞台に自伝的色調が濃い小説です。

トルーマン・カポーティ1924年ルイジアナ州ニューオリンズで生まれています。母親の離婚をきっかけに南部での親戚筋を転々とした暮らしを強いられ、10歳の 頃、再び母親と暮らすために、ニューヨークに移り住みました。後にこの母親は自殺をしてしまいます。決して恵まれた家族生活を送った人ではないです。

NYを舞台にした初期短篇では、「ミリアム」(1945)「夜の樹」(1945)「無頭の鷹」(1946)などすべての作品に共通するのですが、人物たちは三人称として描かれ、暗い色調に満たされています。彼らは「何者か」に追われています。そしてそこから逃れるために自己の内部に幽閉し、自家薬篭的に狂気へと落下していく心理的錯乱に陥ります。ドッペルベンガー(二重人格)的手法がとられたり、シュールレアリズム風に抽象度の高い無意識の錯乱性が描かれたり、その心理的技法は様々ですが、彼らを蹂躙するのは、遠い地である“アメリカ南部性”なのは疑いありません。

彼らは突然なにものかに捕まえられ、周囲が馴染めないものになり、見えないはずの幻覚に怯えるわけです。なぜそうなるのか、というならば、彼らは内なる“闇”を抱えていて、それを他者に「言語化」できないためです。この手の感覚は、フォークナーをはじめ、すべての「アメリカ南部作家」に共通する性格ですけれど、カポーティは中でもその独特な魔術的な言葉を駆使して、これらのテーマに果敢に挑戦して独自な作風を確立したといっていいでしょう。つまるところ、このような都会派の小説を見るならば、NYで母親と暮らすことになって成熟していったはずのカポーティが、少年期を送った南部での転々とした暮らしを忘れることができなかった、その証明でもあることが手にとるようにわかるといえるわけです。

さらに、個人的に思うに、初期の頃の最たる都会派の短篇の傑作は「無頭の鷹」であり、南部派のそれは「誕生日の子供たち」だといっておきます。なお書籍において、「クリスマスの思い出」は『夜の樹』ではなく、『ティファニーで朝食を』に日本版(新潮文庫)では収録されているのですが、できれば米国と同じく、『夜の樹』に収録してほしいことを願います。僕はこの、先述したカポーティの南部での無二の親友の老婆に捧げられた作品がとても好きで、いつ読んでも泣いてしまいますし、最初に読んだときは号泣してしまいました。

前者の幻想溢れる性格を前面に押し出して長編小説として結晶化したのが、南部に父親探しに出かける少年を主人公にした処女長編『遠い声 遠い部屋』であり、後者の南部での子供時代のドラマを描いた代表的長編が、『草の竪琴』です。

先ほど『草の竪琴』はオーソドックスに描かれている、といいましたけれど、やはりカポーティの手にかかった作品であるからには、一味も二味も違うものになっているのは当然です。いわば親に捨てられた身であったはずの“南部生活”ですが、カポーティは自身にとって、人生でそれが最良の楽しかった時期であった、と公言しています。そこが彼の精神的な故郷、小説のアイデアの源泉であったことは間違いないです。それは幸福な記憶であると同時に、でも、残酷な記憶としても、彼の心の奥深くに刺として突き刺さっています。その牧歌的でない、暗さの側面は後に『冷血』に結晶するわけです。

『草の竪琴』のストーリー

母を失い、父も自殺で失った、16歳で孤児となってしまった主人公のコリンは、従妹にあたるドリー・タルボーとヴェリーナ・タルボー姉妹のもとに預けられます。ドリーはすでに60歳を過ぎた老人といってよい女性なのですが、コリンは彼女に恋をしてしまいます。キャサリンというドリーの友人である黒人女性が登場し、ほかにも、ラリーという少し女性にだらしない年上の青年、生真面目なチャーリー・クール判事らが、主な人物たちです。彼らは森に入り、木の上の家で奇妙な共同生活をするようになります。そこには理由があって、ヴェリーナがドリーの趣味である薬草づくりが金になると思い、それをきちんと管理するためにドクター・モリス・リッツという男を連れてやってきたためです。ドリーはお金のためにそういうことをしているわけではない、と姉のヴェリーナと喧嘩になって、家を出てしまうんです。

ヴェリーナは現実的な考え方をする女性です。ドリーはある種病んでいる、といってもいい、夢の領域に住んでいる女性といってよいです。カポーティ風にいえば、南部という「時間の止まった場所」に住んでいる。いわば、そのドリーに導かれるように、コリン、ラリー、キャサリン、判事らが集ってくるわけです。皆なにかしら心に病や葛藤を抱えています。ゆえに、彼らは愛の尊さを知ろうとしています。ひとりの人を愛しつづけることを説く判事のこのような会話など、この小説の中で、とても印象的な場面です。

「お前は反対の方向から始めようとしたのだよ。ライリー」判事はコートの衿を立てた。「どうして一人の娘を想うことができる? 今まで一枚の木の葉にでも心を寄せたことがあったかね?」じりじりしながら獲物を追う猟師の表情を浮べて、ライリーは山猫の声に聞き入っていた。そして、真夜中に舞う蝶のように、あたりに散りこぼれる木の葉を掴もうとした。飛び去ろうとして、ひらひらと躍る一枚の命ある木の葉が、彼の指の間に捕えられた。判事も一枚掴んだ。ライリーの掌にある木の葉よりも、判事の手にある方が大切なもののように思われた。判事はその葉を優しく頬に押し当ててゆっくりと話し出した。「いまわたしたちは愛について話しているのだよ。一枚の木の葉、一握りの種、まずこういうものから始めるんだ。そして愛するとはどいういうことなのかを、ほんの少しずつ学ぶのだ。初めは一枚の木の葉。一降りの雨。それから、木の葉がお前に教えたことや雨が実らせてくれたものを受けとめてくれる誰か。容易なことではないよ、理解するということはね。一生かかるだろう。わたしも一生涯をかけた。しかもまだ悟ることはできない。だが、これだけはわかっている。自然が生命の鎖であるように、愛とは愛の鎖なのだということ。こいつは紛うかたなき真実だ」

やがて彼らのことは町中に知れ渡り、保安官がやってきたりして、町中の人びとが彼らを樹の上から引き下ろそうと、騒動劇が来る広げられるのですが、ドリーたちは決して、樹の上の家からは出ようとしません。なぜならそこはこの世の中にある彼らのたったひとつの「居場所」だったからです。

『草の竪琴』に書かれた文学的特徴

カポーティは、先にいったように、南部での少年期の頃の心温まる作品を短篇にて多く書いています。この小説にある、タイトルである「草の竪琴」というのは、少年期―南部―自然とを結び付け象徴的に使われているもので(まさに愛の連鎖です)、主人公コリン、いわばカポーティの「アイデンティティーの記憶」を呼び覚ますものといってよいと思いますが、登場人物ら、彼らの樹の上での生活は、いささかファンタジック風であり、小説においてもそのように描かれているのが特徴的です。しかし、それは現実です。作品の最後では、短篇で描かれたもののように、ただ子供時代の幸福な記憶としてではなく、残酷でせつない終幕が彼らを待ちうけています。

だからといって「草の竪琴」は決して途絶えることはありません。繰り返しますが、カポーティは大人になってもなおその“南部の土地”に留まりつづけたことは、いうまでもないでしょう。カポーティのすべての小説に、その「南部性」が宿りつづけています。小説は、大人になったコリンが、その草の竪琴を聞いて、この物語を語っている構成になっています。それはこの本を読んだ読者の耳にも、物語が終わったあともなお響いてくるものです。

この作品には、カポーティの文学的な特徴がいくつか表れている、とぼくは思いますので、そのことについてさらに書きます。

※          ※

カポーティの場合、その南部作家としての先行者としてウィリアム・フォークナー(1897-1962)がいますけれども、フォークナーのような前衛性を駆使した実験性、構成の妙、意識の流れの文体、狂気へと陥落する家族の波乱、のようなモダン・アートの性格を作品内に持っていません。カポーティはその生い立ち故か、注視すべきなのは、家族の光景がほとんど出てこないということです。周囲の人間たちには出てくるのですが、主人公には出てきません。主要人物は皆孤独なのです。

カポーティの場合、その超絶技巧とでもいうべき比喩やイマジネーション、繊細で流麗な文章を使い、『遠い声 遠い部屋』等においてはそのゴシック風味が単なる作品の仕掛けに留まらず、文章の隅々にまで満ちており、確かに挑発的な風味もありますが、極めて古風な小説を書いた人だといっていいでしょう。この牧歌的に満ちた『草の竪琴』においては、文章は極めて繊細に技巧が凝らされており、彼の小説は視覚的にも聴覚的にもひどく読者を刺激するもので、登場人物たちの心境は南部の自然と一体化しているふうに描かれています。例えば「双頭の鷹」が、ストーリーを読むというよりも、読者のイマジネイトを喚起させる小説であり、或いは、「夜の樹」もまた、たとえばその列車の震動を心の動揺として喚起させる小説であったりするように、『草の竪琴』は闇の中で感覚を全開に研ぎ澄ますような要素を多分に持った小説だといってよいのです。たとえばこの小説に表現されている「会話」の巧みさに気づけば、この作品の豊かさに溢れているものが、一見してわかります。

  しかし、ドリーは僕の言うことに耳を傾けたくはなかったのだ。悪夢を追い払うように、ヴェールをはねのけた。「キャサリンはぶじに逃げたのだと信じたいわ、でもだめなの。ああ、探しにとんでいけたら! これはヴェリーナの差し金だと信じたいのよ。でもやっぱりそれもだめ。コリン、どう思う? 結局、世界は悪いところだということ? ゆうべは本当にそう思えなかったんだけど……」判事は僕の目をじっと見つめた。どう答えたらよいかを僕に教えようとしたのだと思う。でも、僕にはわかっていた。どのような情念がそれぞれの世界を創りあげているかは問題ではない。人々が持つ世界はどれも美しく、決して卑しい所などではない。ドリーは、自分自身の世界、つまりキャサリンや僕と分ち合ってきた世界に、あまりにも慣れすぎてしまって、周囲を取りまいている邪悪なるものの息吹を感じとることができなくなってしまっているのだ。いいや、ドリー、世界は悪いところではないよ。彼女は額に手をやった。「もし、あんたの言うとおりなら、キャサリンはもうすぐこの樹の下にやってくるわ。あんたや、ライリーが見つけられなくて、帰ってくるというわけよ」

 ドリーの柔和な顔が虚ろになっていた。ヴェリーナの許に行ってやりたいという気持、同時に、自我意識というか、より深い意志がその気持を抑えているようだった。彼女はいかにも残念そうに僕を見つめた。「コリン、いまこの機会に知っておいた方がいいわ。わたしみたいに年をとらないうちにね。世界は悪いところ、いやなところなのよ」

一陣の風のように、一瞬判事の顔色が変わった。彼は、初老を迎えたありのままの自分の年齢を考えたのだろう。ドリーがこの世の邪悪を認めるということは、自分を見捨てたことになる。判事はそう思っているかのようであった。だが、僕にはわかっていた。ドリーは彼を見捨てたりはしない。判事はドリーを妖精と呼んだ。だが彼女は一人の女なのだ。ワインの栓を抜いて、ライリーは四つのグラスにトパーズ色の液を注いだ。それから、思いついたように五つ目のグラスにも満たした。キャサリンの分だった。判事はグラスを唇の高さにあげ、乾杯! と言った。「キャサリンのために! 彼女を信じて」僕たちもグラスをあげた。「ああ、コリン」ドリーは忘れられていた真実に突然気付いたように、大きく目を見開いて言った。「あんたとわたし、二人だけなのねえ。キャサリンの言葉がわかるのは!」

先のは樹の上で暮らす、彼ら社会の中では生きられない人たち、そのひとりである黒人のキャサリンがいなくなったことでドリーが憂慮する場面で、次のは彼らの生活がもはや長くはないことが示唆される場面です。注視すると、これらの深く内面に潜っていく作者の眼は、たとえばニューヨークの都会で、もうひとりの自分を見てしまう幻想味溢れた「ミリアム」の主人公のそれと同じものだということが、読者にはわかると思います。

彼の小説は、心の内面を豊かに描くことを目的にしています。「都会的作品」「南部的作品」、さらに作品ごとに変貌自在にそのスタイルを変えていくカポーティですが、彼は叙情を描こうが、恐怖を描こうが、その人間の閉ざされた「心」を描こうとしています。その小説で一貫して書かれているのは、孤独の人間の心の淵にある、目に見えないものであり、それは自ずとアメリカ南部に底流する普遍性と通じ、さらにそれはカポーティ作者自身の生い立ちとも呼応していくわけです。それらの舞台装置は、すべて彼自身の心の震えといってよいです。

トルーマン・カポーティという作家

カポーティは早熟の天才作家と呼ばれました。20歳を過ぎた頃に、すでに「夜の樹」(1943)「ミリアム」という短編が雑誌に掲載され、処女長編の『遠い声 遠い部屋』でアメリカの読書界の話題をさらいました。23歳頃でありましたから、「天才現る!」と、その端麗な容姿も手伝って、それまでのアメリカ文学にはなかった新しい小説の風を吹き込みました。

彼の最大の傑作長編といっていい、実際の犯罪事件を題材に描いた『冷血』(1966)が、「ノンフィクション・ノベル」という新たなジャンルを打ち立てて、彼はさらにアメリカ文学に大躍進をもたらすのですが、これは事実に基づいた殺人事件をモデルにして書かれていて、多くのページを割かれているのは、殺人を犯した人物ペリーの描写で、いいがたい叙情性に満ち溢れているのが特徴的です。この小説の特異性は、にもかかわらず、恵まれなかった環境に育ったペリーに同情して描かれているわけではないことです。ファンタジックで心温まる『草の竪琴』にも残酷な結末が用意されていたように、作家としてのカポーティの眼は常に冷静であり、幸福と残酷さの両方を等価として見ています。彼は死を含むものとしての南部の豊かさにこそ「愛」を見いだしているのです。これはすごく難しいいいかたなんだけれども。「冷血」とはまさしく作者カポーティのその視線にこそ宿るものです。

『草の竪琴』に描かれたのは、単に弱者たちの集まったモラトリアムの愛の戯言ではなく、残酷な現実の裏返しとしてのそれであり、彼は不幸な生い立ちを 嘆くよりも、己の孤独を、その内省に見える幻想性を、社会に適合できない弱者たち、彼らの悲劇性に満ちた魂を見つめ、彼らから人間とはなにか、生きるとはなにか、小説とはなにかを学んだことを描き出しているといえます。

※          ※

トルーマン・カポーティという作家は「社会化」された制度に生きる人間には見えない、聞こえないものを、目に見え、耳に聞こえ、肌で感じられるものとして、その小説に描きました。カポーティの言葉はそのイマジネーションや技巧でいくら研磨されて行っても、彼が描こうとしたのが、幽閉された人間の内にある心、であったことが、なにより重要なことであったとぼくは信じてやみません。

南部を描いた作家は、カポーティのみならず、愛を問うた作家が多いです。ウィリアム・スタイロンも、カーソン・マッカラーズも、ユードラ・ウェルティも、フラナリー・オコナーもそうでしょう。彼らが残酷さや、闇や、奇怪さを表面に打ち出すのは、その南部的闇が、人間の心や愛情といったものと表裏一体のものだからです。そこがやはり先行者のフォークナーとは異質なところなんです。

この世が不公平で、矛盾に満ち、愛なんてどこにもない、と思っている人にこそ、この『草の竪琴』を読んでもらいたいです。この作品を読めば、それでもこの世界は美しい、と謳う歌声が、人生の残酷さや悲哀を越えて、カポーティが唯一心を通じ合えた仲間たちと愛を語らう会話と共に、あなたの耳にも聞こえてくると思います。

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