こちらあみ子 今村夏子

2011年刊行。第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞作。とっくに文庫本になっています。読まれた方も多いのじゃないのかな。世離れしたぼくにも、この本の話題は耳に伝わっていました。だいたい1~2年にひとりは、凄い、と思える新人が登場してくるんですね。『こちらあみ子』は、表題作のほかに二篇の作品が収録されています。ネタバレありです。誰が読んでも面白い本です。是非お読みください。

今回は読者の感想というより、創作者側から見たレビューといった感じです。

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

「こちらあみ子」

まずは表題作、太宰治賞受賞作の「こちらあみ子」。

最初読みはじめて、高野文子の漫画『黄色い本』みたいな感じなのかな~と思っていたら、ぜんぜん違いました笑。ここ、もう20年くらいですかね……人間の悪意を描くというか、カーストを描くというか、そういう流れが小説に限らずありますけど。不況という時代の流れなんでしょう。個人的にはもう飽き飽きです。今村夏子さんのこの処女作品集もそのカテゴリーに入る小説であるとはいえます。でも、いわゆる「悪意」を描いた作品群とは一風変わって、一回読んで、ぼくはちょっと、うるっときてしまったんですが、二回目に読んだときは、印象が違いました。二回目は創作者の視点で読んだんですね。この作家はかなり用意周到な企みを持った人です。その方法論が悪意といったら、悪意なのかもしれません。

話の内容は、小学校に通う小さな頃から、引っ越しをする十五歳までの、あみ子、を主人公に、その「成長」の中で起こる出来事を時系列的に描いたものです。

地方の片田舎に住むあみ子には、父と母と兄がいます。父は外へ仕事に行っていて、母は家で書道教室を開いています。花を摘んだり、御菓子が好きだったり、そのあみ子は一見普通の子たちとなんら変わりはありません。でも、なんか違うな~とだんだん感じてくるものがあります。あみ子はひとりのクラスメートである、のり君、を好きになります。それから少しずついろんなことが起こりはじめます。あみ子の家は波乱に満ちていくことになります。

家族は崩壊に突き進むことになります。母は妊娠しているのですが、流産してしまいます。あみ子は死んだ自分の弟のためにお墓を造ります。その墓の字を、母の書道教室に通って字が上手かったのり君に書いてもらいます。それを見つけた父、そしてのり君の家族たちは「子供のやったことですから」とやりとりがあります。母は流産後すっかりやる気がなくなり、書道教室をやめてしまいます。そして兄は煙草を吸って不良になっていきます……。

ちくま文庫でいえば、それらのエピソードが描かれた、そのあと、p48辺りくらいかな、ようやくあみ子とのり君のこのふたりのやりとりの中、ここであみ子というこの小説の主人公が普通の少女ではなく、どうやらなにかの心の症状を持ったちょっと変わった子であることがわかってきます。こういうエピソードがあります。

あみ子は恋をしたのり君に投げキッスをして、一緒に下校をして、皆に冷やかされたりするのですが、それは兄にそうしてくれと頼まれたからしているだけだとのり君はいって、一言もあみ子と会話をしようとしません。やっとしゃべったと思ったら、「おまえは気持ち悪い」というわけです。

やがてあみ子は部屋にいると、恐ろしい外の物音に脅かされるようになります。でもそのことを誰にいっても信じてもらえません。

さらに意外なことが、p82辺りでしょうか、発覚します。この書道教室を開き、妊娠をしたものの流産をした母は、実は、あみ子と兄の実の母ではなく、父の再婚相手だった、という家族構成の事実です。

このように少しずつ少しずつ、この小説の「内実」が明らかにされていくことが、この小説の特質といえば特質です。しかし、ここで注視すべきポイントがあります。ここがこの小説の核です。

最初にこの小説はその主人公である、あみ子、の「成長」を描いた小説である、といいました。しかし、実際のところ、あみ子は成長しているようには見えません。

読者はここに描かれた人物の相関図や背景が次第に理解されてくるのですが、主人公であるあみ子にはいつまで経っても、それらのことは理解されないのです。なぜお墓を造ったのに、それが母を悲しませることになったのか。教室で歌を歌ってはいけないのか。なぜ自分が泣くと皆は笑うのか。新しい母のことを「ほくろの人」と思ってはいけないのか……。

クライマックスはあみ子に聞こえる幻聴が、最大に襲い掛かってくる場面です。あみ子はそのとき昔父にプレゼントしてもらったおもちゃのトランシーバーを手にとります。「応答せよ、応答せよ、こちらあみ子」と必死に声を荒げます。しかし、あみ子の声は届きません。あみ子は自分に弟ができたら、そのトランシーバーで秘密のやりとりをしよう、とずっと夢見ていたのです。でも彼はすでに死んでおり、というか、そもそも死産したのは弟ではなく妹であった、ということが、あみ子に衝撃を与えるのですが、やがてその幻聴は、外の鳥の巣であるということがわかり、田中先輩なる人物――これはあみ子の兄なんでしょう―-が現れて、それを放り投げてくれることで消えていくことになります。

『こちらあみ子』について

「こちらあみ子」について個人的な解釈をあれこれしていく前に、まずこの三つの作品が収められた「書籍」自体について、個人的な感想をちょっといいたいかな、と思うんですけど、これはあくまで私見ですが、太宰治賞受賞作である「こちらあみ子」のみでは、三島由紀夫賞受賞は難しかったのではないか、と個人的には思えます。選評を読んでいないのでどう評価されたのかわかりませんが。「こちらあみ子」だけを読んでも、作者の意図するところが、少なくとも上手く達成しているとは今ひとつぼくには思えなかったんですね。二度目に読んだときに、印象が変わったんです。いや、凄い小説ですよ。手法的には、深沢七郎以来の衝撃、といっていいかもしれない。ただまとまりに欠如するところがあると見えたし、前半に比べ後半が弱い。題材に作者の想像力が追いついていない感じが否めない。

あと三倍くらいの分量は欲しかったかな~というのが正直な感想で、そうしたら本当に歴史に残る名作になっていたかもしれません。物語が早急に終わっていく感じが、もったいない感じがしました。

そして肝心の技法的な箇所についてですが、なぜこの作品が相当な企みのもとに描かれているか、ぼくの意見を書きます。

この作品「こちらあみ子」は、説明がないながら小説のリアリ ティーを築き上げている、というところが積極的に太宰賞では評価されたようですが、この作者の企みが凄いところは、あみ子を固定視点にして描かれているにも関わらず、それが三人称である、というところにあると思います。「説明がされていない」のは、あみ子が少し変わった子で、端的にいえば、知恵が足りないから、ということになりますけれど、しかし、三人称故、説明を省いているのはあくまで作者側であって、でも読者にはそれがあみ子だからだ、というふうに読めてしまうわけです。

先述したように、出来事は後々に説明はされていくわけで、母の流産の件や、兄がなぜ不良になってしまったかの理由がない、とか、なにをもって説明していないというのか、それらは説明するまでもなくわかることですし、もし、それが説明がされていないのに凄い、といい意味でも悪い意味でも思うのならば、この作者の技法の企みにまんまと読者がはまってしまっている、といっていいといえます。そして一度目に読んだときに、ぼくははまってしまったわけです。

もちろん小説とはどのように読んでもいいところが醍醐味なので、どのように読んでもよいと思いますし、楽しんで読めればこしたことはないんですがが、多くの読者は、たぶんこの魅力的である主人公のあみ子に強い着眼点を置いてこの作品を読んだのじゃないか、と思えます。でも作者の意図するところは、実はさらに奥深く、あくまであみ子を主体客としながら、作者の巧妙な意図のもと三人称で作られた小説であるという認識に基づき読むと、まったく別の側面がこの小説からは炙りだされてくるものもあるのです。そしてそれは同収録された短篇「ピクニック」にいかんなく発揮されていると思います。

あみ子には前歯が三本ありません。それはあまりにしつこいのり君へのアプローチから、のり君が複雑な感情を爆発させて、あみ子を突発的に殴ってしまったためです。

殴られたほうはあみ子なのに、この場面などはのり君のやるせなさや悲しみのほうにぼくが感情移入してしまったのはなぜか? この小説において、あみ子の感情はやはり直接描かれることはありません。今村夏子があみ子という直接描くことができない少女を主人公に据えた時点で、この小説は成功したも同然だったでしょう。この小説の省略法が波及効果を持っているのは、あみ子自身よりも、そのあみ子から放たれる説明のなさによって、彼女を取り巻く状況、そのせつなさや喪失感、ときには暴発してしまう周囲の暴力が暴かれることにあるわけで、またその関係性を巡って、そのことであみ子の無垢を感じられる手法がとられている、というわけです。

「ピクニック」

この作品は400字詰め原稿用紙100枚ないかくらいの短篇小説で、「こちらあみ子」とはずいぶん趣が変わっています。場所は水商売風のレストランで、店のウリは、10代の若い女の子たちがローラースケートに乗るスタイルにある、というような設定で、「こちらあみ子」とはまったくことなる設定の小説です。でも、「こちらあみ子」の同工異曲的作品であることが読むとわかります。さらに、この小説では、「こちらあみ子」では、主人公あみ子によりかかることで、ある意味する術のなかった作者の思惑が技法として徹底されているので、今村夏子という作家の特質を掴むのに絶好の作品だとぼくは思います。

七瀬さんなる人物が住む家の近くで川に沈む泥掬いをします。彼女はこの作品の主人公です。それらの描写は鮮やかに描かれるに対し、その店の内装やら雰囲気、支配人もただ「支配人」と名指しされるのみ、七瀬さんを取り囲む彼女たちも大勢いながら「ルミたち」と、呼ばれるに留まっています。「ルミたち」などと一括して呼称されるこのいいかたは、小説のリアリズムというより、この筆者の絶妙な語り口において、この日常をおぞましいものに反転させていきます。

トーリー自体は非常に面白いものです。若いルミたちの店に新入りで入ってきたのが、その年上の七瀬さんなる人物です。最初は厨房希望だったようなのですが、支配人がルミたちと同じホールにまわすよう指示して共に働くことになります。年はもう三十歳を超えている頃なんでしょうけど、ルミたちが「いくつですか?」と聞いても、「秘密」と彼女は答えます。代わりに、とても素敵な話を彼女はしてくれます。

彼女には10代の半ば頃から、ずっと親しくして、そして今付き合っている彼氏がいるというのです。そして、なんとその彼は名の知れた芸人だというのです。彼は七瀬さんと付き合うにつれTVにも出て少しずつ売れっ子になっていきました。出会いがなにしろ素敵で、七瀬さんの彼、その春げんきくんは小さな頃川に靴を流してしまい、それを拾ったのが七瀬さんで、ラジオで芸人として活躍している彼に、その旨を一リスナーとして伝えたところ、彼はそれを覚えていて、付き合ってください、と向こうから返事がきた、という話。まるでシンデレラです。

やがてその春くんがまたもや川に、今度は携帯電話を落っことしてしまった、という事件が起きます。ルミたちは七瀬さんのために、携帯探しに共に躍起になります。やがて要らぬ人物がひとり登場してきます。まだ年が15、6歳のいちばん若い女の子が店に新人としてやってくるのです。彼女の発言が少しずつその「七瀬さん」と「ルミたち」の関係を罅割れさせ、というより、読者にもわかるように、その真相を白日の下に明らかなものにしていきます……。

「ピクニック」は今風な漫画っぽい作風で描かれてあるので、古風な趣のある「こちらあみ子」のほうが評価が高いでしょうけれど、技術も完成度もこちらのほうが高いとぼくは思います。

「こちらあみ子」にしても、「ピクニック」にしても、とにかくどうしようもないなにかを抱えた人間がある種の境界を越えてしまわざるをえない場合があり、その事態と、それを取り囲む人物たちの動きが共に表されているのが、今村夏子の描く世界だとひとまずはいえると思います。しかし、ここにこそ重要なポイントがあると思います。

「こちらあみ子」も「ピクニック」も同じだと思うのですが、彼ら主要人物たちがある種の境界を越えてしまうのは、彼らの内部に理由があるからじゃなく、たとえば「こちらあみ子」の場合、あみ子がある種の精神的な病を抱えているからそうなってしまうのではなく、あくまでそれは周囲との関係性によってそれは呼び起こされたものだ、ということです。今村夏子という作家の文学性はそこにあります。さらに、それがただ表されるだけにとどまらず、「動き―連動」という恐ろしさ、それが「客体」を通して循環した物語として伴ってくるところが、ぼくが考えるに彼女の文学の骨頂です。

図式的に捉えれば、本来主客たる人物の心の動きはゼロ地点=つまり虚構、のままなので、それに絡まってくる、動かざるを得ない人物らの客体の様子をとことん描いてストーリーを進行させるのですが、読者はあくまでゼロ地点に視線を留まらせ続けられている、故に主体と客体との「無垢」と「悪意」(「こちらあみ子」の場合は崩壊)とが描かれる、それが、「こちらあみ子」であり、「ピクニック」という小説の創作秘儀です。

今村夏子の文学性

ぼくは今村さんの作品はこの一冊しか読んでいないのですけど、少なくともこの作品を通して得た感想としては、繰り返しになりますが、この作家はあくまでなにかを抱えた苦悩するその人物を直接的に対象として描きだしはしないということであり、「こちらあみ子」でいえば、あみ子が主人公なわけですけれど、その心の揺れではなし、その人物が関係する周囲の人間模様を共に描くことで、“その心”を――声といってもいいかもしれません――、読者に想起させようとする、という、またそういう小説を描こうとしているのでもないということは明らかです。こういう読み方をしている読者が多いようですが、異論があります。

彼女が描くのはそれらの人物を取り囲む周囲の状況の波乱との関係性であって、彼女の筆は徹底的に日常に潜む、ある種の落差、といっていいのか、そこに惹起される関係性に注がれていることは疑いありません。ぼくは、彼女が捕えようとしているのは、広義的な意味での対立せざるを得ない人間たちの姿じゃないか、と思えてなりません。

しかし、それはパワーバランスとしての強弱の関係性ではなく、集団的他方と比べ、常に一方が徹底的な無理解的な存在、虚構、ゼロ、としての立場に立っているということが、面白いんです。

あみ子のことばかり言及されて、その「関係性」としての方法意識があまり述べられていないような気がしたので、敢えてそこを強調してこのレビューは書いた次第です。実際ぼくはこの著作を、その点を強く実感して読みました。

あみ子や七瀬さんは、この小説の世界において、「彼らの世界」では普通ではない存在です。ゆえにそれらの人物たちが「言葉」「態度」として表現するときには負を表出せずにはいられないわけです。でも、あみ子や七瀬さんは、関係性によってそうなっているわけであって、彼女たちが被害者や無垢である、というのもまた違うといっていいでしょう。(それは、ぼくたち、現実側から見た解釈にすぎません)人と人とが関係するとき、必ずなにかが起こってしまう。普通とはちょっと違う人なんて普通にいます。問題なのは、その人が誰にも通じない心を持ち得ている場合です。今、普通にいる、とぼくは敢えていいいました。しかし、驚くことに、ぼくらが住むこの一般なり民主主義なり、なんでもいいですが、そう呼ばれるこの世界では、普通であることが普通でないような意味で感じとられていることが、実は驚くことに「普通」なのです。

今村夏子という作家は、それらのことを「悪意」=「純粋」な視線でもって、小説に書いていると思います。彼女はそのどちらも等価としてとらえている作家だと思います。

www.chikumashobo.co.jp 

あひる

あひる

レビューを書いたあとに、読みました。この作品集も素晴らしいです。

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