本来は生まれながらに満たされているはずの欲望 ~part3 所属と愛の欲求について

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適材適所が人間を生き延びさせ、同時に、適材適所が人間を苦しめもする。


 社会人類学者のレヴィ=ストロースは、人間のみならず、すべての生物はそれぞれに最も生存確率が高いからこそ、今の社会性を作り上げた、という考えを述べています。

 わたしたちが猿人から出発して、道具を開発し、言語を習得して、農耕をし、貨幣を流通させ、機械を製造して産業を推し進めたのは、人間という存在が多種の生物より優れているからではなく、そうしたほうが生存確率が高かったからにほかならなかったのは、周知の事実です。これは他の動物も同じです。

 キリンがなぜ首が長いか? 猫はなぜ人間と共同生活をすることが可能なのか? すべてそうですね。

人間は他の動物と比べても脳、いわゆる誕生後に大きく知識を累積する前頭葉ですが、そこが大きく発達していますが、それは脳が、進化した過程から言語や道具を習得したのではなく、必要に迫られてそう発達した、と考えるほうが適切です。

「Part1の人間の五大欲求」で述べたように、わたしたちは、皆が当然にやっていることができない、だから鬱になる、さらに切迫した遅延の感情に押しつぶされて、またがんばって、そして病気をぶり返す、という悪循環を繰り返すのは、その人が今置かれている「社会性」において生存確率が低いからだ、といえます。

 たとえばビジネスに置き換えて、考えてみましょう。経営学では、帰属意識欲求のことを、バンドワゴン心理などといったりします。「君、まだガラケ―使ってるの?」という排他コピーを吐露することによって、「じゃあ、スマホに変えなきゃ」と、集団心理に顧客を促すのです。

 たとえば、経営不振の状態の場合、それは利益率の悪い業種に自分が今身を置いているといえます。努力やノウハウの問題じゃないケースがほとんどです。渦中にいると、それがわからない状態になります。あるいは、今勤めている会社が重圧でしかないのなら、転職をすべきですが、人間には「同調圧力」というものがあり、皆と同じになるようにしなければならない、という強迫観念が患者を襲いつづけており、それと戦っていることが充足感に繋がっていることが、なお厄介です。だから、ブラック企業も辞められないのです。

ブラック企業には、雇用者側の集団帰属意識心理をみごとについたバンドワゴン操作がはたらいているわけです。

フロイトの精神分析学に戻ります。

フロイトは人間がふだん行っているほとんどの行為は、主体的なものではなく、無意識に刷り込まれた被支配的な行動だといっています。

小さな頃に、母親に一流大学に入らなければならない、立派な社会人となって経済的な富を得なければならない、そういわれたことが、あなたのその後の考えを支配しています。それどころか人生のシナリオはすでに15歳くらいまでのあいだに、決定しているのです。以前に、アメリカの作家であるコーク・マッカーシー原作で、キャメロンディアスやブラット・ピットらが主演した『悪の法則』(2013)という映画がありましたが、監督はリドリー・スコットでした。この物語などは、まさしくその「人生の脚本」の取り返しのつかなさ、をテーマにしていると思います。

ぼくのことをいうのならば、ぼくは小さな頃から勉強ができず、運動もできず、いわゆるソーシャル・スキルがまったく低い、極度の対人赤面症と恐怖症に悩まされた、孤独な人間でした。心に常に重たい疲労感と、鬱屈した思いがあり、頭痛や神経性の下痢にも悩まされていました。

歩いていても、突然座りこんでしまいたくなるのです。この脱力感がどうしてほかの人にはないのか、と不思議でなりませんでした。友人たちに思いきって訊ねてみたことがあるのですが、一笑に付されました。「これは自分だけに起こっていることなんだな」という思いが、ますます自分の心を狭量にしていったと思います。こんなことでは生きてはいけない、とよく自分を思っていました。

勉強にしても、運動にしても、人間関係にしても、これまでの仕事にしても、自分なりに精いっぱい頑張ったと思います。しかし、向上はされません。先に述べたような、悪循環にはまっているのです。

ぼくは無意識にヘーゲル的な「弁証法」を、自分で実践していっていたのだと思っていますが、最初に無垢な自我があり、様々な障害を乗り越え、他者を取り込むことで、最終的には調和が訪れると信じていました。努力が高い次元の人間へと成長させてくれると思いこんでいたのです。

さらに、こうも思っていました。

自分が苦しんでいるのは、自分が人間として劣っているからである。

しかし、これは嘘です。自分より劣っている人間でも、まったく苦しんでなどいない人間を間近に見ていたからです。それはこの世界で生きていくための、自分に対しての整合性だったといえます。

人生は一向に改善されない。ますます自分の鬱状態はひどくなっていく。

世間は怠け者だと、自分のことをいう。

成績が悪い子供に向かって、勉強しろ、と親はいうでしょう。人は勉強の努力をすれば成績が上がりますが、人間の苦しみは努力をしたところで治癒されることはないことが多いです。それは自分の置かれた状況に関係しているからです。うつ病の人に最もいってはならないことは「もう少しがんばってみろ」、というのは、誰もが知っていることです。

 

「所属と愛の欲求」の解消法について


1 環境を変化させる

自分に見合った環境を見つけるということが大事なのは、それがいわゆる「社会性での評価」を一切無視してかまわない、ということに繋がるから、ということです。見つかるまで、どんどん環境を変えればよいのです。自分が望んでいるのは、本当に自らが欲したものであるのかを、何度も問いただすべきです。繰り返しますが、あなたは「人生のシナリオ」に沿って生きています。このまま生きていっても、時があなたの苦悩を解決してはくれません。10年後もあなたはそのままでしょう。それが嫌なのなら、「人生のシナリオ」を書き換える必要があります。仕事がつらいならば、それは上司との人間関係が悪いのか、その会社が合っていないのか、そもそも業種が合っていないためです。

2 コミュニケーションを再考する

自分が発言する意見が間違っているかもしれない、稚拙なものかもしれない、相手にとって退屈なものかもしれない、ひょっとして傷つけてしまうものかもしれない……とソーシャル・スキルが不得意な人が陥りやすい心理状況があります。

しかし、言葉を発する前、言葉を飲みこんでしまう、その前に、一呼吸おいて少し考えてみましょう。

先にいったことと関係しますが、自分の願望が本当に自分から発せられたことなのか、と問うことといっしょです。

本当にあなたの言葉が相手をげんなりさせるものでしょうか? 気を点けなければならないのは、残念ながら、あなたがそう感じることはままあたっている場合多いのです。あなただけではなく、他の多くの人たちも社会的な存在として生活をしているため、あなたはその社会性を意識するあまり、言葉を発せなくなっています。しかし、退屈させてもよいではありませんか。それより黙っていると、不快な感情を相手に与えてしまい、そのほうが関係性を悪くしていまいます。

しかし、あなたは黙ってしまいます。なぜか? 自分を悪者にしたくなく、自己肯定の観念に縛られているからです。

思いきって、言葉を発してみる。相手をげんなりさせるのならば、また新たに環境を変えればいいだけの話です。

もちろん社会で生きる以上、社会的言語、たとえばお世辞や社交辞令等の言動は必要ですが、自分の本音を口にするとき、それが本当に自分の内側から発せられているものなのかを吟味することが、なにより大事になります。

あなたの言葉を肯定してくれる人が必ずこの世界にいると信じましょう。なぜなら人間は生まれてから社会的存在でありますが、実のところそれは個体としては多種多様の非社会的存在であり、社会で生きる人でこの世が窮屈だ、と思っていない人は、実のところいないからです。

まず言葉を発し、不快感を与えないことから脱し、それから関係性を構築することを努めましょう。

3 与えられたいのであれば、まず自ら与えるという、コミュニケーションの原理原則を理解する。

ブラック企業に入っても、なかなか辞められない、という人がいますが、付き合った彼氏がDVであっても、なかなか別れられないという人もいます。

そういう人たちは、この「所属と愛の欲求」が強い人たちです。

しかし、彼らは今自分が属しているその環境を幸せだとか、愛などとは思ってはおらず、彼らは欲求が強すぎるゆえに、いったん属した環境から身を退けることができないわけです。

ここで考えるべきなことは、愛、についての定義です。少し抽象的ですけども。

わたしたちは愛を与えて欲しいと願います。それは小さい頃に親が与えてくれなかったから、前の彼氏にフラれたから、いろいろな理由があると思いますが、幼少の頃に両親の愛情に恵まれた人間は、大人になった場合にソーシャル・スキルで躓かないといわれています。

精神分析学のフロイトは母親からたっぷりと愛情を貰ったがゆえに、そのような欲求が少なかった、と事実発言をしています。

ポイントなのは、所属や愛の欲求が強い人は、それを社会的な観点でとらえない、ということです。これらの欲求が強い人は、間違いなく幼い頃の近しい人からの愛情の欠如が理由ですが、たとえば小説家の北杜夫は戦中の貧しい時期に少年期を送ったため、お金も入り好きなものを食べられる豊かな時代になっても、まだ飢えの感覚が残っているといい、食欲を性欲や物欲などより欲望の最優先に置く、ということを、エッセイで述べていました。

実は赤ん坊として生まれた子供は、その母親に無償の愛を授かっているように見えますが、これは違っていて、赤ん坊はただそこに存在しているように見えて、実は母親に与えているわけです。すくすくと育った子供は、自分が母親に与えたことなど露とも想像しません。

子育てをした人ならわかると思いますけれど、子供というものはそのくらいかけがえのないものなのですし、だからこそ、おむつを取り替え、ご飯を食べさせ、玩具を与え、学費を払い、社会人として立派に生きていけるようにさせます。

母と子もまた社会的枠組みの中にもたらされた関係性だということを理解すべきでしょう。

ゆえに、愛が欲しいのであれば、まず自分がそれを相手に与えるべきなのす。ペットを育てたことがある方ならわかると思います。犬猫は餌を与えてくれた人に懐き、深い愛情を覚えます。餌、というのは、ひとつの例ですが、これは「自分を生存させてくれた人」と認識させるものです。これも社会的な関係性です。

与えると、人はその方に愛情を覚えます。愛に飢えているかたは、他人に与えてみてください。必ず返ってくるものがあります。なにも与えられるものがない、という人がいます。こういうと、たいていそう答えが返ってくるわけです。

しかし、振り返ってください。あなたが今生きていられるのは、なにかしら、誰かがあなたに与えてくれたからだ、ということを。

与えられなかったならば、多くの捨て猫たちのように死んでいるのです。そして与えられた人は、与えることができるのです。それは与えられたことを忘れているのです。これが社会というものです。コミュニケーションの原理です。自分は与えられるものがある、と自分自身を見つめ直してほしいと説に願います。人と心が繋がると、不安は和らぎます。所属という欲求は満たされます。ビジネスもそうしないと、絶対にうまくいきません。

次回は、「承認の欲求」について、その問題点と、解決法を述べたいと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

※ 参考文献 『悪の法則』(2013) 監督リドリー・スコット 

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