人の欲望について part5 ~自己実現の本質

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より高い人間力の持ち主ほど、他人に与えることで充足感を味わう。


 今回はこのシリーズの最終回です。この記事だけお読みいただいても、全然かまいません。自己実現とはなにか、というお話です。

 自己実現とは、この一連のシリーズ記事で最初にいったマズローが人間の成長の中の最終段階に位置すると述べた、もっとも高次元の人間の欲求となります。

 生理的欲求→安全の欲求→所属の欲求→承認の欲求→自己実現の欲求、ですね。

自己実現とはなんでしょうか?

  たとえば、社会経験の豊富な人や、経歴が優れた人の特徴として、ある一定の年齢に達すると、政治家を目指す人たちがいます。彼らはひとつはこの自己実現の欲求に駆られているのは明白です。自分の最後の人生をこの人間のステージの最高のことに費やしたいと思っているわけです。これはビジネスにおいても、似たようなヒエラルキーを持っていることが証明されています。

(高) ギブ―テイク―ギブ&テイク―ギブ (低) 

年収の高い人ほど、他人になにかを与えようとする傾向があり、大事なのは与えることが自分の幸福感に繋がる感覚を持っているということです。金持ちは性悪だ、というのは笑、刷りこまれた風潮で、この段階では「テイク」の次元にしかせいぜい達していない人たちです。よく成金はケチだといいますが、これも当たっていて、本当の金持ちは、人に与えることを惜しみません。面白いのは、年収が高い人も、年収が低い人も、共に「ギブ」という姿勢、いうならば人生観、思想が共通していることです。 

話が戻ってしまいますが、ぼくの考えでは、政治家を目指すような人は50対50で、「公」のために尽くしたいというギブの考えの持ち主と、実は、その手前の「承認の欲求」を満たしたいために、そのような立場を選ぶ、に分れていると考えます。

 自己実現とは、自分の能力・可能性を発揮し、創作的活動や自己の成長を図る欲求、というものなのですが、これらのことも踏まえて、さらに自分の人生を遡って、考えてみましょう。

人間はそもそも自己実現欲求からすべてははじまっている


 自己実現欲求は、人間の欲望のヒエラルキーの山頂に位置し、人生最終のステップだといいながら、比較的若い時分、10代の頃に自分の感情を支配していた事実が、実は多いのです。

多くの人たちは、学校の勉強などより、その頃、なにか自分の能力を磨き、それを発揮して、他人に認められたい、自己実現をしたい、という夢を持っていたはずです。青春期にそれが顕著になり、多くの人がスポーツをやったり、芸術をやったりし、それらに挫折するのもまたたいていで、わずか一握りの人だけが、それからの自己実現を、努力によって現実に可能にしていきます。

  ぼくは自己実現の欲求が人間の中にあることはわかりつつも、それは才能のある一握りの人間にしか可能ではない、と長いあいだ思っていました。多くの人たちはそれを認めつつも、持ってはいないと思っていたわけです。しかし、それは社会の忙殺の中で、人生のシナリオが書き換えられただけで、もともと人間に備わっている欲求です。

 承認の欲求のところでも述べましたが、社会で生きる人間の多くは、ほとんどが「所属の欲求」で心は満たされ、つまるところ家族の形成、仕事で、人生の充実で、それ以上の欲求が湧かなくなっていきます。共通するのは、たいてい顔なじみの人としか合わなくなり、子供の育成を楽しみにし、ある程度の年になると、それを理由に己の願望自体をすり減らしていくという道筋です。

最初に、人の欲求はある種の欠乏感からくると述べましたが、ぼくが思うに、「承認の欲求」は欠乏感からもたらされると思いますけれど、たとえば小さな頃親から愛されなかった、若い頃友達ができなかった、家がものすごく貧しかった等、しかし、自己実現の欲求は、自身の欲求というよりも、他者と関わることで、実は見開かれていく欲求だと思っています。

 しかし、この欲求こそが、社会に出ることによって、消滅するのです。

 自己実現欲求は消滅する。しかし、正しくいえば抑圧される。

 なぜか? 実現しないことが理解できるからです。

 なにも社会的に生きている多くの人たちが、ある種閉鎖的な中で生存している、というわけではないのですが、自己実現の欲求を持つ、それを持ちつづける人は、ゆえに、その欲求を自身の内側から起こってくるものというより、もっと普遍的なものとしてとらえていきます。

  オリンピックの金メダリストに輝いたスポーツ選手が、現役引退後、育成や後発者の指導や、団体そのものの活性化のための運営に携わることが多いのは、彼らがすでに普通の人たちよりは大きい欲求に心を支配されているためです。芸術家は、すでに生まれ持って、或いはその育成の過程の中で、金銭や他人に認められたい欲求よりも、もっと高次元の欲求に突き動かされて創作活動に身を乗りだしていく人が多いのです。

 彼らがなぜそうするのかは、万人には少しわからないものがありまして、死を覚悟しても、高い山に挑戦しつづける登山家や冒険家たちがいい例です。

 面白いデータがあるのですが、人の起源がアフリカにあるのは、皆さんご存知だと思います。そこからわたしたち祖先は大陸を渡って、ある者は留まり、未開の地に残り、ある者はさらに遠くへ行くことでより進化した文明を成し遂げる社会を作り上げていくことになったのです。

 人間の所属愛のところで述べましたが、人は生存率が高いところに自分を依拠させる生理的な現象が、まずあります。ヨーロッパ大陸が発展したのは、多くのわたしたちの祖先がそこに留まったからです。しかし、さらにその先を渡っていった人間たちがいます。とりわけ極東の島国である日本列島などはその最たる例でしょう。わたしたち日本の祖先たちは、ひとつは留まった彼らに合わせることができなかった弱者だったゆえに、他の地を目指すしかなかった、とも考えることもできます。けれども、それは短絡過ぎる意見です。そこに留まることもできたはずなのに、未開の地を目指した、という見方も大いにできるわけです。

 これは非常に面白いわけです。これがなにを示しているかというと、人間は所属の欲求よりも、強い欲求に突き動かされて、生きる存在だという証明にほかならないからです。

 たとえばわたしたち日本人の祖先は、どこからやってきたのか?

 その問題はずっと昔から議論され、様々な論説が専門家により無数にされていますが、昔は朝鮮半島、沖縄諸島などは地続きであり、そこから歩いて渡ってきたのだ、という学説が一般的でした。しかし、この論説が近年崩れつつあります。

 日本大陸は最初からユーラシア大陸とは海峡を隔てて孤島だったという説が強く、ならばわたしたちの祖先は海を渡ってきた、としか考えられないのです。

わたしたち日本人の祖先は、大陸に居住することに生存率が低い、と見たために、わざわざ船を作り、命を落とすかもしれない、危険な冒険に身を乗りだして、この日本の島へ辿り着こうとしたのでしょうか? 違うでしょう。

人間にはただ生存する欲求よりも、さらに高次元の欲求が潜んでおり、それを行動にまで突き動かすものこそが、自己実現能力であり、それが生理的欲求を超えてしまうこともあるわけです。

逆説な論説になってしまうのですが、そのような生存率を貶めてしまうかもしれない「冒険」に賭けてしまう欲求があるからこそ、人間という多種多様な民族性や文化を育んだ生命体が維持され、進化した、ともいえるのが、人間というものの本質です。

自己実現を否定する人たちがいます。「いつまで画家とか、小説家を夢みているんだ、」と。

しかし自己実現能力は人間最後の欲求だといいましたが、歴史的検証も交えて俯瞰してみるならば、実は自己実現の欲求こそが、人が最初に、最も欲するものであって、それを貶める人たちは、たとえばビジネスにおいても高次元の結果を残すことはできません。わたしたちが住むこの「社会」を根源において考慮することから、マズローのいう五大欲求が考えられた、ともいえるのです。

自己実現欲求こそが、結果を生み出す最大のパワーである


 人間には様々な欲求があります。そしてその欲求は人と人とが関係して暮らす「社会」から生れ出るものだ、ということです。マズローのいう五大欲求を、ステージをあげていく人間の成長過程ととらえるのは、いかにもヘーゲル的な近代的観測に基づく、一義的なものだとも見てとれますが、ぼくがいいたいのは、これらすべての欲求を並列に同等としてとらえるべきだということです。

それは「成長」の過程で、段階を経て行くにしか過ぎません。

ある人は己の使命のために、見ず知らずの人のために自ら命を落とすこともあります。なぜ、そんなことをするのか? は他人にはわかりません。危険を顧みずに、超高層ビルのあいだを綱渡りする人もいます。

人間の五大欲求について、それがいかにわたしたち社会で生きる人間の活力において、重要なポイントを示すものであるのか、それを語ってきましたが、とにかくわたしたち人間は様々な欲求を持ちます、そしてそれに悩まされ、振り回されます。

出来る限り、それを改善し、コントロールしていくことが大切ですが、そのためには今自分が置かれた社会性の中でのポジションをまず認識することが重要になってきます。ひとつずつ階段を上っていくのです。

そしてさらに深く、人間の潜在的遺伝子の中に、それらの欲求が胚胎しているものだ、ということを理解する必要があるということです。

わたしたちはなんのために生まれてきたのか?

わたしたちはただ食べ、眠り、排せつするためだけに生きていくことはできません。

わたしたちは生まれてきた以上、人間として、人間が持つ欲求を活かして、より人間らしく生きる権利があります。

ぼくがこのような記事を書いてきた意図は、いわゆる悩みや苦悩、そういったものを、否定的にとらえる人が多く、またそれらの方たちを改善しようとする方たちの多くも、短期的な解決策を述べるに留まる専門家が多いからです。

もちろんそれが専門家としての仕事であり、クライアントが望むものでありますから、当然だといえますが、ただ、「生存」というものを考えてみた場合、そこに少し、それの根源となっている、わたしたちを悩ませる欲求というものが、実はとても人間らしいものである、ということも知っておくべきだ、ということです。

人は冒険心や創造性と共に進化してきました。これを否定する、ということは、わたしたちのいる経済社会を否定することでもあります。ビジネスをする際にも、短期的な視野で物事を見てはなりません。

繰り返しますが、わたしたちは人間である以上、書籍を読みつづけ、海を渡り、この世界を少しでもよくするためにはどうしたらよいか、と悩みつづける葦であるということです。自己とはすでにもう他者なのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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