現代私小説の毒虫 車谷長吉の『鹽壺の匙』

車谷長吉

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車谷長吉について

車谷長吉(1945-2015)は惜しくも2015年に亡くなられましたが、僕にはこの作家の作品に触れるのが遅かったことが、大いに悔やまれてなりません。現代の作家で、こんな凄く、それだけじゃなく、こんなに面白い小説を書く人がいたのか、ということに、もう本当に驚かざるを得なかったんです。

彼の一番好きな書籍は? というなら『金輪際』(1999)をあげますが、最も優れた作品というならば、第六回三島由紀夫賞を受賞した『鹽壺の匙』(1992)に疑いはないでしょう。もちろん直木賞受賞作の『赤目四十八瀧心中未遂』(1998)も彼のハードボイルドの技量を惜しげもなく披露した傑作だと思いますが、僕は『鹽壺の匙』に収められている「吃りの父が歌った軍歌」、そしてタイトル作の「鹽壺の匙」は、これからも永久的に読まれつづけていく名作だと確信しますので、今回はその「吃りの父が歌った軍歌」と「鹽壺の匙」の二作品に絞ってレビューします。最初に断っておきますが、長いです。

異端の作家、車谷長吉

車谷長吉という作家は、生前自身で公言していたように「私小説作家」にカテゴライズされています。しかし、僕は彼の全体像を作品を通して俯瞰してみるに、必ずしもそうとはいえない側面があることを、まず述べておきたいと思います。それはなにも彼が途中で私小説断筆宣言をしたから、という事実があったからではなく、彼の作品性格は確かに私小説的土台を持ちながらも、その性格は、先に述べた直木賞受賞作である、という資質も含めて、意外と多岐に渡ります。彼は『贋世捨人』という自伝的小説を書いていますが、タイトル通り、彼の転落していく人生はどこか演技臭く、落ち切るところまで落ち切らない趣があります。少し前なら、いわゆる中間小説と呼べるような作品もけっこう書いているのです。

そもそも「私小説」自体がある種の「難儀さ」、車谷長吉の言葉でいえば、「疎まれていた、毒虫」であったわけですが、実際は私小説は日本近代小説の王道であり、蔑まれたような印象をもたらしたのは、近代の終焉が囁かれはじめた1970年代後半から、いわゆる「近代の超克」などと呼ばれた問題がひと段落した1990年代前半くらいにかけてのことでしょう。とりあえず、私小説とはなんぞや? それを説明す るところから始める必要があるかな、と思います。

日本の近代小説は島崎藤村や田山花袋らの自然主義、私小説らの作品を発端にして始まったとされます。その後、武者小路実篤、有島武郎、志賀直哉らの白樺派が現れ、近代小説は大正時代においてひとつの成熟を迎えます。同時代にも、森鴎外や永井荷風や夏目漱石や谷崎潤一郎や幸田露伴や尾崎紅葉や泉鏡花等、たくさんの作家たちがそれぞれの独自の作風を起立させていたわけですけれども、明治維新以降の文壇の主流はあくまで自然主義であり、とりわけ女弟子との私的な関係を告白した田山花袋の『蒲団』は、文壇に衝撃を与えて、「私小説」という日本独特の一ジャンルを大きく形成していくことになります。さらにその私小説をひとつの心境小説の粋にまで到達させた志賀直哉という人物が文壇の兆児になり、昭和に入って、純粋小説を唱えた新感覚派の横光利一もまたそれ以上に文壇の兆児となった辺りが前期日本近代小説の頂点であったといえると思います。

もちろんほかにも自然主義が持つ「ありのままの悲惨さ」を描く手法を突きつめたプロレタリア文学勢が隆盛し、日本浪漫派のような勢力もありましたし、その後も私小説は独特な成長――僕は成熟とは呼びませんが――を遂げて行った小説の歴史が抜き差しならなくあります。

車谷長吉はその文壇の主流の方法意識であった「私小説」を武器にして、1990年代に登場して小説を書きました。古臭い方法論です。村上春樹が持て囃され、後にJ文学なるものが流行する、その頃のことです。最初の小説集『鹽壺の匙』(1992)ですが、新潮文庫の解説は吉本隆明が担当されています。彼の言葉が車谷長吉の文学性の一面を鮮やかに暴きだしていると思えますので、引用します。

  父や母の振舞いをおぞましいとみてあばきだす「私」の手つきには温度がない。温いわけでも冷たいわけでもなく、温度そのものが欠けている。養われている叔母や従妹にたいする描写でもおなじだ。叔母が買ってくれたクレヨンにさわった従妹を叱りつけ、従妹がわたしの母が買って上げたものじゃないかと口答えすると、従妹のたべる渦巻きパンにガラスの破片を入れておく。気に入らないことがあるといきなり焼火箸を障子につきたてたりする。そのあげく叔母の家を厄介払いにされ、じぶんでは叔母に母の代理をもとめていた気持をうち砕かれ、捨てられたと思いこむ。こういうことはすべて「私」の記憶として描かれているわけだが、描かれている事実よりも描き方の無表情さ、「私」の言い方をかりれば「感情を生埋めに」している文体が作品の特徴だといった方がいいと思える。

私小説が自然主義文学の胎内から生れるについては、その経緯がどんなにいびつであっても、それなりの必然があった。また「私」をめぐる人間関係を描写するかぎり、真実らしさにゆきつくことについて理念に似た確信もあった。その場所で言えば私小説はひとつの文学史的な必然を背負っている。だが車谷長吉が「私小説」というとき、文学史的な私小説とはかかわりがない。独特な「私」がぽつんと孤立して、悪作の描写のうちに成立しているものをさしている。文学史というようなものをこの作家は赦してもいないし、文学史から赦されてもいない。だが主人公の「私」の振舞いは悪にはちがいないが、背徳的でもなければ、人間性にたいするルール違反でもない。また「私」の独特な遇せられ方も、悲惨ではあってもルール違反ではない。わたしのかんがえではこの作者が人間の心の働きの病気や、人間以外の生きものの世界を、ひとりでに人間とおなじ実生活の圏内に包括できているからだとおもえる。ひとりでにというのは語弊で、ほんとはじぶんの狂気の振舞いの悲しさをよく心得ているのかもしれない。

(『鹽壺の匙』 車谷長吉に収録された、「私小説は悪に耐えるか」吉本隆明)

最初に車谷長吉の文学性について、あくまで僕が思うところですが、その結論から述べてしまいます。

車谷長吉の描く私小説世界は、吉本隆明がいうように、それまでの私小説作家たちが描いた私小説とは異質です。引用の文章を読むと、自分の卑しい心情や生活を暴露した私小説作家であった葛西善蔵や嘉村磯多のような小説か? と思われる読者もいるかもしれませんが、実際車谷長吉は大学時代に彼らの小説を読んで影響を受けたことを公言しています。しかし、読者並びに普遍的な人間に呼び起こされる共通概念を否定したところで立脚される言葉を紡ぎ、小説を書いている作家だったのであって、たとえば文芸評論家の三浦雅士などは、彼は私小説作家ではなく幻想作家だ、と断言しています。(『金輪際』の解説より)。彼の第二著作集にあたる『漂流物』(1996)でのいくつかの作品は、まさに「幻想小説」としか名づけようのないスタイルで描かれています。吉本氏並びに三浦氏らの評者たちが述べたところを鑑みても、彼は確かに身辺雑記を描いていますが、私小説作家と括るには的を射ていません。

吉本隆明は、車谷長吉の小説は「温度」を持っていない、と書いています。僕は彼の作品は、私小説を手法としながらも、そこに深沢七郎風の土俗的風習の世界、或いは仏教思想的死生観を挿入したところが、彼の私小説をそれまでの作家たちとは違う際立ったものにしていると思います。彼は私小説作家と名乗りましたが、実際はそれを「借用」したのです。

遅咲きの作家車谷長吉の文学的意味

車谷長吉の経歴を最初見たとき、僕はとにかく驚かざるを得ませんでした。彼は1945年生まれです。元号でいえば、昭和20年です。(「自作年譜」より 『女塚』 車谷長吉・新病文庫に収録)。彼は戦前生まれであり、「最後の近代小説家」といわれた中上健次より早い、中上は戦後生まれです。(中上は1945年の8月に生まれています)中上健次が古典の風格を備えているのに対し、車谷長吉は遅咲きだった、亡くなってまもない、という理由等関係なしに、その古風な作風なのにもかかわらず「現代性」が匂うのは不思議でならないことです。彼の私小説はあくまで現代の作品として息をしているわけです。

彼は『鹽壺の匙』(1992)によって第六回三島由紀夫賞を受賞して文壇に登場してきました。重要なのは、それが、近代文学がまだ隆盛だった1970年代でもなければ、もう文学など終わった、と揶揄されるようになった、つまり戦後生まれの村上龍や村上春樹らの新しい軽妙な小説が台頭した1980年代でさえなく、その後バブル経済が崩壊してこの国に不況の足が忍びよった1990年代という、いつ光が射すかわからない混迷の時代に入ったそのときだったということです。

彼は文学が盛んだった時代に文学青年として育っています。まだ文学が今よりずっと人々のあいだに力を持っていた頃です。知的好奇心の多い若者は本を読み、友人たちと文学論争をしていました。理系の人間でさえも、小林秀雄や夏目漱石は読んだのです。車谷長吉もそのような熱に浮かされた地方の青年の小説好きのひとりだったのでしょう。最初から作家志望だったというわけです。そして文学がとうに終わった頃に、四十代も終わりになって、中年というより、ほぼ初老といった風貌で文壇に飄々と現れました――新人賞を受賞したのは二十代のときだったわけですが――。しかし、この「飄々」というのは、大きな語弊があります。彼は『鹽壺の匙』のあとがきで、挑戦的、意図的に、自らこう記しています。

 この二十数年の間に世の中に行われる言説は大きな変容を遂げ、その過程において私小説は毒虫のごとく忌まれ、さげすみを受けて来た。そのような言説をなす人には、それはそれなりの思い上がった理屈があるのであるが、私はそのような言説に触れるたびに、ざまァ見やがれ、と思って来た。 (『鹽壺の匙』 車谷長吉)

車谷長吉は敢えて「私小説」という手法をとったのは間違いないと思われますが、それをどのように自己流にして描くかに大いに悩んだと思います。そしてここが面白いところなんです。

彼は大学を出て広告代理店に勤め、会社を辞めて、料理人の下働きで貧乏暮しを経験します。低回する人生の遍歴を辿ります。相当な覚悟で人生、或いは小説とも対峙していたことは間違いありません。名を馳せる、ということは、「時代が要請する」ということであり、彼の文学の機が熟すには、時代を待たねばならなかったのかもしれません。私小説なんかもう終わった、とされる時代まで。いや……もっと、それが在ったことさえ忘れ去られる時代まで。

それで『鹽壺の匙』です。僕が車谷長吉の書籍の中で最も気に入っているのは、この作品にほかなりません。ここで彼は叔父の死を題材に扱っています。車谷長吉はこの叔父の死を書くために小説家を目指しはじめたのです。しかし、それを描くには、20年以上の歳月がかかったわけです。

『鹽壺の匙』は彼が20代の終わりに書いた、最初に文芸誌に発表された実質的な処女作品「なんまんだあ絵」(1972)から、40代までのおよそ20年に渡って描かれた短篇が集められた作品集ですが、タイトル作の「鹽壺の匙」以外、中には散文詩風のものや、掌篇小説もあり、モチーフも様々でまとまりには欠けるのですが、この「鹽壺の匙」こそが車谷長吉という作家の原点であると同時に、ひとつの到達点もある作品であるのは間違いない、とぼくは思っています。

女塚 初期作品集について

作品をレビューする前に、車谷長吉が同人誌をしていた20代の頃に発表したもの、未発表だった作品を収めた『女塚 初期作品集』という、より初期のものがその後発刊されているのがありまして、さらに前置きが長くなって申し訳ないですが、こっちをざざざっとレビューします。これに彼の文学的原初をあからさまに照射するのに好都合な作品が収められている、と僕は思うからです。

車谷長吉はすでに20代のときに文壇デビューしたことは書きましたが、その前にも仲間たちと同人誌をして、小説やエッセイを書いていました。

僕がここに収録された作品で貴重だと思えるのは、エッセイとして書かれた「昭和二十年生まれ ―天皇からの距離」で、これは、タイトル通り車谷長吉の天皇に対する距離感が具体的な印象をもって描かれたものですが、敗戦の年に生まれた彼は、天皇に対して複雑な心を持っていることが描かれています。

車谷長吉という人は冷徹な目で他人を見つめ、自分を見つめて、言葉を紡ぐ作家です。そこには憐憫や同情等の感情は一切湧きません。そのためか一 見小説は淡泊に見え、無表情な顔を晒し、なにを描きたいのかわからない、というふうにも見えたりもして、どれだけ残酷な悪意を暴きたてようと、醜態がさ らされようと、 日常僕たちが抱く感情の類が湧かない雰囲気が漂います。代わりにあるのは、戦慄、です。これは「日常」を超えたところにある感情です。そしてそれは三浦雅士がいう ように、ある意味幻想に結びつくものです。

また、吉本隆明がいうように、その自らの内、あるいは周囲の人間、そもそも人間の心の内に宿 る悲しみをよく熟知していた人だったことも間違いなく、これを超えようとする意志を持つことで、生きることの「違和」を耐えようとしたのだと思います。邪悪な目で持って邪悪な人間の性格を見つめてしまうことに耐える。そうしてしまう自己嫌悪に耐える。それを小説に書いてしまう、という世間の目に耐える。そ してこのような小説の境地に、彼は実際に到達した。

たとえばこのエッセイに書かれた天皇という存在に対して、彼は尊敬の念を持つことはできませんし、戦後に、象徴、となった意味もよくわからないといっています。それで物心を着くようになった頃、教師の影響を受けて、左翼思想に被れ、天皇を蔑むようになるのですが、ひとつの事件によって、それまであやふやであった彼と天皇との距離がきっちり計測されることが起こります。

それは当時社会党委員長・浅沼稲次郎が、選挙演説中に17歳の右翼少年に刺殺された事件です。それが彼に強烈な衝撃を与えました。車谷長吉は皇太子結婚の記事が載った新聞紙を便所紙として使い、それで尻を拭く、という行為をそれまでしていたわけですが、彼はそこでひとつの人生の壁にぶちあたったといってよいでしょう。つまり、彼は人生で初めて自分の力では乗り越えられないものがここにあることを知ったのです。

「汝はだれか」という未完の、やはり若い時分に書かれた短篇作品も、この作品集には収録されているのですが、新潮文庫の解説はやはり三浦雅士が担当されています。ここで彼は漱石を引き合いにだして、車谷長吉のその分裂した自己の在り方を探っているのは卓越した分析で、「私小説」とは「私」を描くことなわけですが、「私とは何か?」と問うのは、自我と他者との間で分裂を起こしているからにほかならないですけれども、たとえば、僕たちが「自分だ」と思っているその存在、あるいは、父であること、息子であること、学生であること、男子であること、日本人であること……こういうものはすべて他人や社会の承認によって成されたものです。子供は母親の承認を経て育っていき、泣くのは、この承認欲求を満たされたいためです。しかし、それに違和を覚える自己を抱えた人間がときどき現れます。分裂した症状をその内部で引き起こさざるを得ない人間たち。それを生涯テーマとして描きつづけた日本最大の作家は、やはり夏目漱石でしょう。車谷長吉もそういう人だったのだと思います。この『女塚』はそういうことが描かれた作品集です。

天皇についての論説など、これはまさしくその分裂についてどう対処するか、それが象徴的に描かれたもので、車谷長吉という人が、人生のある時期に、自分ではどうにもならない壁にぶち当たった、そして、もしそれを突破しようとするなら、それはどうするだろうか、と考えた、ということがとても伝わって来るものがあります。ぼくがここで述べたかったのは、そのことです。彼は、戦慄、という慟哭が、日常を推し進めたところに位置することを覚えたのだ、と僕はこの本を読んで思いました。そしてそれは彼の文学的原点である、叔父の死、と結びつくはずです。

彼の作家志望の動機は、叔父の自殺です。インタビューで再三語っています。車谷長吉は自分が小説を書くのは、救いのためでもある、とも書いています。彼が救いを求めたのは小説を書くということでした。それも出来る限り毒々しい、人間の闇を抉りだして描く私小説を。

「鹽壺の匙」について

ようやくレビューです。

「鹽壺の匙」は「今年の夏は、私は七年ぶりに狂人の父に逢い行った」という書き出しで、はじまります。読者は面食らと思います。僕も読み始めて、あれ? と思ったわけです。それ以降、父のことがあまり描かれません。そこから親戚の話がはじまります。彼は叔父にあたるその人を「宏之お兄ちゃん」と呼んでいました。その叔父の吉田家のことを、車谷長吉は「闇」として抉りだしていきます。

 私が子供のころ吉田の家で呼吸した底深い沈黙。無論、そのうめきにも似た不気味な沈黙を呼吸したのは私だけではないだろうが、併しそれについて語 る者は誰もいなかった。語ることはあばき出すことだ。それは同時に、自分が存在の根拠とするものを脅かすことでもある。「虚。」が「実。」を犯すのであ る。だが、人間には本来存在の根拠などありはしない。語ることは、実はそれがないことを語ってしまうことだ。だから語ることは恐れられ、忌まわれて来た。 併し春の日永の午後などに、不意に、言葉にはならない言葉の生魑魅のようなものが、家の中のどこかに息をしているのを感じていることがあった。  (「鹽壺の匙」 車谷長吉)

  併し私は文子のことを語っているのではない。ある金貸し一族の物語りをしているのでもない。私という存在が呼吸した闇の力について語っているのである。語 ることは自分を崖から突き落とすことだ。併し文子叔母の血みどろのズロースは言うに及ばず、私にとっては、多恵子叔母が東京の高級官僚のところへ嫁ぎ恙な く暮していることさえ、不気味な闇の力だった。不気味なものは語ることを人に強いる。  (「鹽壺の匙」 車谷長吉)

これらの箇所には、物語というものの核心が赤裸々に述べられています。小説は叔父を取り巻く家族が細かく描かれていきます。曾祖父の勇吉は家を追いだされ、鍛冶仕事をして生計をたて、家族を作るのですが、その娘である祖母のゆきゑは高利貸しをします。彼らは代々そこで生きてきた者たちではなく、「外」からやってきた一族です。そういう意味においても、村では忌み嫌われている部分があるわけです。息子の宏之はそんな家庭に囲まれて育ち、彼らに反骨精神を持ったのか、真逆の純粋な心を秘めた青年として成長していったようです。文学書や哲学書を読み、バイオリンを習って、東京の大学へ行こうとします。しかし、いったん上京した彼は田舎に戻ってきてしまいます。理由は何にあったのか? 「負けたんだ」と彼はそれだけを口にします。決して具体的な挫折の理由をいおうとしないのです。他所で教師として働きだします。ときどき郷里に帰ってくるという生活をしばらく送ります。そして、突然家の自分の部屋で首を吊って自殺を遂げるのです。享年二十一歳です。叔父についての記述にはこうあります。

 また別の日、吉田へ行くと、市川の葭の繁みで捕えて来たばかりの翡翠を見せてくれた。螽欺箱の中のそれは、目の底が慄えるほどに美しい鳥だと思った。翌日、心をときめかせてまた翡翠を見に行くと、空の螽欺箱が中庭に面した縁側に放置されていた。宏之叔父にたずねると、ゆうべ自転車で市川の河原へ行って逃がしてやった、と言った。

恐らくその時の私は「あれ。」と思って、宏之の顔を見たに相違ない。だからこそ虫籠が放置されていた場所が、中庭に面した縁側だったことまで憶えているのだろう。私が宏之叔父に関して記憶していることは、ごく僅かである。併しその記憶の中ではこの場面がもっとも色鮮やかである。その前日はじめて目にした翡翠の美しさに魅せられたということもあるだろうが、併しそれ以上に、折角捕えたその美しいものを宏之が逃がしてやったということに目を見張ったに違いないのだ。それは時には極道と渡り合うこともある吉田の家の静けさとは異質な息づかいが、宏之の中に流れているのを感じたということであったかも知れない。併しそうは言っても、こちらはまだほんの子供である。日常のごく有りふれたことの中で、空の虫籠が記憶に残ったというに過ぎないだろう。

当時、宏之はすでに青年と称んでもいい年齢に達していた。僅かに残された遺品から推し量って、そのころマルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」やドストエフスキー、萬葉集、森鴎外の文庫本などに読み耽っていたらしい。やはりその時分に読んだと思われる和辻哲郎の「ニイチェ研究」の余白に、今も青インキの色が鮮烈な文字で「俺は自分を軽蔑できない人々の中に隠れて生きている。」と書き残しているが、これは「隠れて。」というニュアンスを除けば、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の中の言葉をほとんどそのまま転写したものだ。併しそれは「隠れて。」という一語が挿入されることによって、宏之の言葉になっている。ツァラトゥストラの言葉は未来への予言として語られているが、宏之は今のこととして言葉を呼吸している。恐らくは無意識のうちに挿入したのだろうが、併しそうであるがゆえに、当時、上べには見えない部分で息をひそめて生きていたらしい生身の宏之の心臓が伝わって来るのである。が、それは今の私に伝わって来るのであって、当時の私は母からもらった化粧品の函の中で飼育していた尺取虫が逃げたと言って、泣き面をしているような少年だった。それだからこそ空の虫籠が印象深く刻印されもしたのだろうが、併しそれは当時の宏之と私とが何か掛け替えのない時間を共有していたというようなことではない。寧ろそれぞれに別の世界に生きていた、と言った方がいいだろう。宏之はたまさか私の世界に現れる隠れ神のようなものではなかったか。  (「鹽壺の匙」 車谷長吉)

読者はここで突き放されると思いますが、なぜなら「語ることは、実はそれがないことを語ってしまうことだ」といいながら、「不気味なことは語ることを強いる」とも述べているここでの作家の心象が矛盾を起こしているためです。

彼ら一族は外からやってきた人間たちだった、と僕は書きました。それは、この世の外へ「出された。」という、この小説はこの部分をこう表現していますが、このほうがよりこの作品を語るには相応しい言葉だとぼくは思います。そもそも吉田家全員、自殺した叔父も、母親も、曾祖父も、また親族である車谷長吉自身も、そのわけのわからない「闇」にとらわれているのは明白です。最初の一行に戻ります。狂人の父に逢いに行った、と書かれた箇所を想起してみます。淡々とこの「親戚一家の狂態」ぶりが描かれるこの小説がなぜこの出だしではじまるのかが、読者の心の腑に落ちるものになることがわかるはずです。

「鹽壺の匙」は車谷長吉が親戚に起こった悲劇を単に素材として扱った類の自伝的小説ではありません。父の吃音は、車谷長吉の祖父が異常な癇癪持ちで、折檻を繰り返したことが原因だと具体的には述べられてはいますが、たとえば別の作品『飆風』(2005)に収められた「桃の実一ヶ」では、彼の母親にあたると思わしき語り部の女性は、すべては因縁であり、呪いである、といいきっています。

車谷長吉がとうとう描ききったといってもいい「鹽壺の匙」というこの名品は、自然主義小説からプロレタリア文学に通じる、いわゆる「家」とのたたかい、がそのままが踏襲されているかのような作品性格を持っているところが非常に興味深いのももちろんなわけですが、家父長権力に支配された父権制度に対するそれ、といったような、それまでの文学的風土に枠組みがとどまっていないのは明白で、「父権」に対抗したのは「自死した叔父」であり、「私」である語り部の作者は傍観者といってよい。

さらにこれは穿った個人的意見ですけれど、これはあくまで私小説として描かれています。にもかかわらず、というより、それゆえ、どこからどこまで「事実」であったのか、ぼくは相当疑わしい、と思っています。たとえばここでは叔父の死を「美しい死」として描きだしていますが、これは邪推ですが、これは「小説らしさ」を整えるための作者の意図的なものだとするのは、行き過ぎる考えとはいえないでしょう。ニーチェ等の引用にしても、僕にはこれが作者の小説ならしめるための配慮だったと思っています。

再び文庫本での解説の吉本隆明の言説に戻ります。「車谷長吉はそれまでの私小説作家、たとえば志賀直哉や嘉村磯多らとは違っている、なぜならそれまでの私小説作家たちのように、描いたものが苛烈なものでもそれが結局普遍的な人間の共通理解を得られる」という、そのような境地だったものだったのに対し、それらを彼はあてにはしていない、という言葉です。このことを考えてみる必要があると思います。

私小説としての「鹽壺の匙」

先ほども言及した、私小説の出発とされる田山花袋の『蒲団』(1907)という作品があります。これは女弟子の恋をしてしまった中年男性が、嫉妬も交じった感情もあってなのですが、彼女の夜着の匂いをそっと嗅ぐ、という私的な性を露悪的に描いて、私小説の出発点となったものです。本来は、人間の恥部であるが故、内密にしておきたい自分の内を敢えて暴露したその物語は、それが露悪的であるからこそ、読者の心の奥にある隠しておきたい感情とそっと呼応するものがあるわけです。私小説がなぜ人々の心を刺激するのかといえば、そこが理由であって、「ありのまま」を描いているからではないのです。

しかし、そのような「作者」と「読者」が孤独な内なる交感を通して共犯関係を結ぶ作用が、車谷長吉の作品にはありません。作風は嘉村磯多に確かに似ているのですが、やはり異質な私小説です。最もそのような普遍的私小説の作用を利用して読者を得た作家は、太宰治ら、ほかにもたくさんいるわけですけども、彼らとも隔絶した手法で描かれています。

車谷長吉が私小説に描いた「私」は、私小説家の代表作家である、志賀直哉とも、葛西善蔵とも、嘉村磯多とも、異質な「私」です。それで、この『鹽壺の匙』に収録された「母の髪を吸うた松の木の物語」から、吉本隆明は、彼の絶対無とでもいうべきその行き場のない私小説を、人間と動植物、正気と狂気、リアリズムと伝承とが区分けされていないところがあり、そこが打破への道だった、と書いていますが、僕が思うのは、たとえば柳田國男らの民俗学的アプローチ、あるいはフォークナーらのアメリカ南部作家ら、或いは車谷長吉がもっとも近代小説作品として優れているとあげている深沢七郎の「楢山節考」(1956)の世界、さらに仏教思想に通じる生死観は、彼に決定的な影響を与えたはずです。叔父の死を扱ったこの「鹽壺の匙」は、単にリアリズムとして叔父の死を描いたものではなく、代々と伝わった歴史の冷酷の姿の一面を描こうとしたことが鍵だと思います。これを可能にしているのは生死を均一化して見る「私」の視点です。「闇が語ることを強いるのだ」と作品内で車谷長吉は語っているのは、その戦慄に足を踏みこむことで、浮かび上がってくる対象を描く、という姿勢です。

彼は「私」を超えて、普遍的な私、へ到達する、という通常の私小説作家の道筋とは違って、すでに用途の終わった「私小説」という古い様式を持ちだし、そこに「私」を見出そうとしている。彼は確かに、文学史を信じてもいないし、それに赦されてもいません。しかし、ここに逆説があって、その「私」から、近代文学史の総体が、呪いのように小説から蘇生してくる「闇」があるのです。

「鹽壺の匙」に描かれた叔父に対する私の視線はまさしく冷徹であり、この作品が不思議な肌触りを持っているのは、確かに死を扱っていながら温度を持っていないことです。これは生から見られた死ではなく、作家の視線はほとんど死んだ叔父の死の視線にまで辿り着いてしまっています。叔父の死=近代、を車谷長吉の視線は、ここで蘇生させていると僕は思います。

この実際に彼の身に起った近親者の純粋の極致ともいうべき美しい自殺は、絶望や悲嘆ではなく、最初のところで書いてあるように、まさしく少年車谷長吉の深い部分に触れた、彼にとっての快楽、確かにそれであったに違いありません。つまり、車谷長吉はここで、小説、を描いたのです。

戦慄、は何の前触れもなく、彼の目の前に突発的に起こりました。しかし、実のところそれは様々な連鎖の果てに起こるべくして起こった事件であり、このことを車谷長吉はその冷徹な視線で、長い歳月を経た人生の葛藤の中で理解していったのだと思います。この作品に描かれてあるのは、叔父の死を題材にし、そこから養われていった車谷長吉の「私」にほかなりません。

叔父の死を描いたのではなく、叔父の死を通して、私小説を描いた、といえば、わかりやすいでしょうか。

車谷長吉という人はたしかに私をモチーフに小説を描きましたが、それを純粋な私小説としては、僕は読んだことがありません。悪口でいうのではありませんが、読んだあとに残るものが少ないのです。醜悪な自分、罪深い自分を描く私小説的作風を描こうとも、そこには読者への共感がやはり断たれているからともいえますし、彼がある種の通俗性を帯びたストーリーテラーの側面を持ち得た性格にもその理由があると思いますが、なにより理由は彼の小説が私小説ではないからです。

「吃りの父が歌った軍歌」について

僕がこの短篇集の中で、というより車谷長吉の作品中最も完成度が高いと思うのがこの「吃りの父が歌った軍歌」です。白洲正子がこの作品を絶賛して、まだ当時無名だった車谷長吉に手紙を書いたという有名なエピソードがあります。初めてもらったファンレターがなんと名だたる作家からのものだった、というわけで、車谷長吉は大変嬉しかったことを自身でも吐露しています。

この作品は主人公である車谷長吉らしき主人公と彼の弟との関係を描いた小説です。ここで彼自身、また家族や周囲の他人を見つめようとする眼力は、どの作品以上に冴えに冴えわたっており、僕は「鹽壺の匙」と、この作品で自分の理想の小説を描ききることに成功した、と思います。

内容は、年の離れた弟を猫かわいがりする母親に心を痛めた長男である車谷長吉と思しき主人公の「私」が、弟に憎しみや苛立ちを募らせ、病的な家庭内暴力を暴発させるものです。回想風に描かれていますが、時代設定は、その幼年時代から、車谷長吉が大学進学のために上京して就職した東京での生活、さらにそこでの暮らしに挫折をして帰郷してくるまででと、広範囲に広がっています。弟が東京にいる兄を訪ねてきたのは、とあることで知り合った者の骨を預かり、その埋葬先を一緒に探して欲しいためです。

この話はあくまで弟との関係を軸にしているわけですが、旅行中のアメリカ人を宿泊させる場面が後に登場したり、そもそもタイトルが「吃りの父が歌った軍歌」であるなど、「鹽壺の匙」同様、作者の眼は一定していません。時代設定においても、今述べたように、一点に絞られていません。彼のこの複眼的な視点は、しかし、また同じように複眼的視点を持った志賀直哉とはまた違った意味で、新しい私小説を形作っています。

車谷作品は醜悪な部分がどうしても表だってしまうので、そこにばかり目がいきがちですが、彼の小説の最大の論点は、「私」を描きながら、それが私に留まらず、時代設定もまた限定されていない、ところにまさしくあると思います。この対立構造はシンフォニー的性格を帯びて、劇的な小説効果をあげていると思います。

具体的に言及すると、作品中最も陰惨な場面がいくつかあります。弟を憎しむ主人公が、小さな頃、弟が沸騰する薬缶へ近づいていくのを、黙っている見ているシーン、或いは、猫を殺すシーンです。

最初の場面では、薬缶へ近づく弟を止めるどころか、「行け、行け」と彼は思います。そして思惑どおり、弟はつんのめって、湯を被り、顔にひどい火傷を負って、それは一生の跡ととして残ります。これが過去の傷跡としてでは なく、現在も目に見える、一生のものとして残った、というふうに書かれてあることは決定的です。彼が描いているのは記憶、さらにそこに胚胎する単なる罪意識の感情ではなく、永劫的に離れていくことのない、心の闇、です。

猫の場面は、主人公が小学校五年生のとき、彼は一羽の百舌鳥をとても可愛がって飼っていたのですが、隣家のおせえはんという老婆が飼っていた猫に百舌鳥が食い殺されてしまいます。それで怒った彼は、先述し た病を暴発させて、その猫の目に五寸釘を打ちこみ殺してしまうのです。

「どうぞ赦してやって呉れ、私が土べたに手ェ突いて謝る」

と言うのも承知できず、来る日も来る日も執念深く物干し竿で猫を追い駆け回し、果ては雀を囮に使って罠に掛け、逃れようとする猫の目に五寸釘を突き刺し た。たまたま庭便所から出て来てこの様を見た母が悲鳴を上げた。すると隣家からおせえはんが出て来てこの光景を見た。それを見た私は更に逆上し、猫の胴体 に縄を掛け、その端を自転車の後ろに括り付けて、市川河口の永世橋まで、二粁の道程を地べたに引き摺って行った。そして橋の欄干からまだ生きている猫を吊 り下げ、血が垂れ止むまで見ていた。家へ帰って来ると、蒼ざめた母が泪を流しておせえはんに謝っていた。普段は無口のおせえはんが目を凍らせて、

「梅子は、梅子はどないした。」

と寄って来た。

「妻鹿の橋にぶら下っとら」

私がこう言うと、母が私の顔をまじまじと見て、

「お前は恐ろしい」

と呪うように言った。

(「吃りの父が歌った軍歌」 車谷長吉)

これは『漂流物』に収録された「抜髪」にも言及されている内容ですが、彼が可愛がっていた百舌鳥を籠から出してしまったのは、うっかりした母の責任です。しかし、もし、それが自分の失敗であったとしたら、彼は猫をこのような残酷なやり方で殺害したでしょうか?

解説の吉本隆明は、この部分を「痛切」=「愛」いう言葉でいい表していますが、ここに描かれているのは、単なる自分の残忍な暴露的記憶ではなく、また誰もが持ち得ている復讐心を抉り取る野望でもありません。人間がどうにもならない現実を突破しようとしたときに、日常=現在に宿る悲しみや苦しみという感情でもなく、戦慄、といった境地に到達するしかなかった、人間の業のようなものだと思います。

一般に私小説とは作者自身の嘘偽りのない身辺雑記の類だ、といわれているものが多いわけですが、有名な私小説作家である志賀も葛西 もそれだけの作家ではありませんでした。志賀が描いたのは、そこに自らが注視する、好き嫌い、という極めて主観的な自意識過剰すら超越した「私」であり、葛西はどん底に落ちていく己 を含めた家族の肖像の中に描かれた、やはり主観を埋没させるほどの「私」でした。大事であるのは、彼らは共に自らの意志で、その 「私」を普遍性に及ぶまで高めた、ということで、この姿勢は車谷長吉においても確かに共通します。

重用なのは、この惨く非情に描かれた、大事にしていた百舌鳥を猫に殺されて、その猫の目に五寸釘を打ちこむ、というエピソードを描いた車谷長吉の描き方にやはり温度がなく、これは小説――フィクション――である限り、それが実際にあったかどうかは関係のないことで、ここで重要なのは、彼が小説にそれを書いた、という、まさしくそのことに尽きます。これが具体的叙述で丁寧に、過去の体験談として描かれてあったとしたら、それを思い返して呪いに怯えるような、罪意識に苛まれるような凡庸な私小説作品となっていたに違いないでしょ う。しかし、そんなふうに車谷長吉は描きませんでした。彼がそれだけ冷徹であったからか? これは二十年近い歳月を往復した歳月の中で描かれたエピソードのひとつに過ぎないのです。そのような性格が、この私小説作品を特異 なものにしています。ここにも、闇、の底へ降りて行ったものが見つめる戦慄をもってして描かれた特異な私小説が現れています。

日本の自然主義小説、私小説

私小説は日本近代小説の王道であり、またそれが攻撃される時代が確かに過去にありました。それらが繰り返され、ねじれを起こしているのが、日本近代小説の最大の特色だと思います。戦争が終わり、新しい時代を迎えて登場した無頼派の織田作之助や坂口安吾らは、権威となっていた戦前の作家たち、志賀直哉等を大々的に批判しましたが、しかし、自身私小説としか呼べないような自伝的な作品を書いているのはなぜか? 村上龍や村上春樹のような作家でも、自身の経験を題材にした小説を書いています。少なからず日本で小説を書こうとする作家は私小説から逃れることはできないのです。

自然主義小説とプロレタリア文学、と私小説との違いを簡単にここで述べておきます。

前者は現実に起こった事実を最大限に注視します。ゆえに被虐的であり、悲劇性が高まるジャンルです。後者は、事実に即しながらも、それはあくまで題材であり、目的は「私」を描くことにあります。その「私」とは、なにか? など簡単に答えが出るものではないために、多くの作家は私小説を書かざるを得なくなる羽目に陥り、またその分裂や鍛錬に耐えられない人間は、私小説を描くことに挫折します。

私小説は芸術の本来の在り方を炙りだします。僕が最も私小説と似ていると思えるのは、江戸時代における文人画を描いた絵師たちです。彼らは書と絵を同時に描きましたが、彼らの目的は芸術を高めることであり、己を高めることでした。彼らにとって大事なのは、自然を見つめる眼であり、精神性への純化なのです。

車谷長吉の作品が共通理解を放出しないながらも、なぜ読者に感動を呼び起こすのか、ということに答えるならば、己の邪悪な部分を見つめ、その視線によって他者の邪悪な魂を見つめて人間の根本の在り方を問うているから、とやはりなるわけですけど、重要なのは、そのような私小説の在り方を受容していった日本の体質に最も要因があるためです。――ゆえに、彼の天皇についてのエッセイについて述べました――。なにより、これも非常に日本的な性格なのですが、「現状」を超えようとしていこうとする意志力を持つことが、彼の作品の人間を暴く眼に表れているためです。

志賀らをはじめとする多くの私小説作家は「心境小説」という、いわば悟りの境地へ小説を鍛錬しましたが、車谷長吉の土台にはやはり嘉村磯多がいたのだと僕は思いますけれども、その作品は、嘉村磯多が自身の悲劇的な体験をたいそう立派な文章で表現した私小説作家に踏みとどまったのに対し、「私小説」を己の意志や通俗的手腕で蘇生させたのが車谷長吉だと思います。好き嫌いを軸に小説を書いた志賀直哉をカントとみなすなら、超人になろうと強烈な意志力を持った車谷長吉はニーチェにどこか似ています。あと一点だけ、彼の小説の特質について述べたいことがどうしてもあるので、書きます。

車谷長吉の私小説作家としての立ち位置

車谷長吉という人が伝統的な私小説を書いた作家だからといって、彼を近代小説作家の末裔と呼ぶことはできはしても、その継承者と呼ぶかどうかは、今述べてきたように、大いに疑問が及ぶところがあるのは確かでしょう。彼を純文学作家と呼ぶのにも抵抗がある人もいるでしょう。実際直木賞を受賞されています。繰り返しますが、彼は「私小説」を蘇生させた人です。

日本の近代小説の発端となった自然主義小説、私小説は、人間の闇や恥部を描くことに、その目的意識がありました。日常に隠していることを暴き立てることで、人間の内面性を描く、そのような小説の役割りとは、この世界や人間の真実を描くことでした。車谷長吉は嘉村磯多の私小説と出会ったとき、最初そのように描こうとしたかもしれません。しかし、そのようには叔父の死を描きませんでした。毒を吐き、闇を覗き、醜態を曝します、けれども、真実を探求しようとはしていませんし、ただ冷徹に世界を見つめ、深刻な境地に耐えます。何度も書くようですが、すでに書くことが、彼にとってはもう真実なのです。

彼の著作のひとつ『飆風』(2005)に、「私の小説論」という車谷長吉の講演を文字起こしした文章があって、彼の文学性を解するに、なによりこれが非常に興味深いと僕は思いました。彼は、作家になりたければ全集を読みなさい、という文芸評論家の小林秀雄の言葉に倣い、全集を次々読破していったという話をここでしていますが、その中に嘉村磯多や尾崎一雄ら私小説作家らに混じって、夏目漱石やドストエフスキー、フランツ・カフカらの名前もとりあげられています。もともと車谷長吉は慶応大学の独文科卒で、卒業論文は「カフカ論」でした。カフカについての文章も書いています。――先の『女塚』に収録されています――。

彼は2005年に名誉棄損で訴えられた後、私小説廃業宣言をしましたが、べつに驚くのに値しません。繰り返しますが、彼は「私小説」という土台を借りたポストモダン的作家です。その現実を意志の力で越えていこうとするその「私」から見られた作品世界には、今あげたような漱石やドストエフスキーやカフカ、他にも哲学や仏教思想、諸々の先行者たちの影響が作品に透けて見えます。彼が到達したかったのは、叔父の死と出会ったときの暗闇に走った、まさしくその「戦慄」でしょう。彼は小説とはなにか? という問いに、「虚。」が「実。」を超えることだ、といっていますが、まさしく闇が彼にその転倒する言葉を強いたのです。

まとめ

一般的な私小説作家の作品が持つ背徳感や憎悪が普遍性をつのに対し、それがあくまで「個 人」の側に留まる車谷長吉の作品は、彼がなにより日本の近代小説において自然主義、私小説が主流であったということも大きいと僕は邪推します。彼が芸術を 信じ、人間を信じているからこそ、そうだったことが、どの作品からも伝わってくるからです。文学至上主義者、と文芸評論家の福田和也は車谷長吉のことを、 いささか揶揄的にいっていますが、実際そうだと僕も思います。

僕はその生も死も溶解させてしまった死者の目によって、いわば彼の言葉によれば、「世捨て人」になることによって、繰り返しますが、彼は私小説を復権さ せた、と思ってやまないわけです。

彼は確かに「近代小説」からは断たれています。ただ、僕はこう思うのです。しかし、そもそも「私」という存 在そのものが、歴史から断たれたものではなかったのか? 「文学」そのものが、歴史から断たれたものではなかったのか?

それが私小説に対する僕の結論であり、文学そのものに対する僕の持論であり、車谷長吉の文学を読んで、受け取った僕の最大の印象なのです。

車谷作品をまだ未読の方は、そのページを開くと、ちょっと古臭いかな、難しいかな、と思う感じもあるかもしれませんが、彼の小説はある種毒々しいユーモアセンスに満ちて通俗的でもあり、とにかくそれまでの私小説の概念を悉く打ち破ったと思います。太宰治がそうであったように、彼はエンターティナーだったと思うのですよ。

戦慄、というこのレビューのテーマに則っていえば、先述した『漂流物』に収録された「抜髪」などは、そのような意味での真の傑作だといえますし、本当は車谷文学についていえば、全作品をひとつひとつレビューしたいくらいですけれど、もうこれ以上長くなってしまうので、ここら辺りでやめますが、語って も語っても語り尽くせないくらい、彼が貴重な現代作家だったということは確かなんです。実際彼は私小説や硬質な文学を再び現代に蘇生させ、一般読者にも波及さ せるダイナミズムをぞんぶんに持った力量を持っていたことは紛れもない事実です。

文学、それも私小説なんて……と思わずに読んでみて欲しいです。だらだらと書きましたが、車谷長吉の最も優れた部分とは、彼の小説が面白いんだ、ということに尽きます。

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