一人出版社の夏葉社。 『あしたから出版社』 島田潤一郎

夏葉社

pixabay

夏葉社(なつはしゃ)という出版社をご存知でしょうか?

吉祥寺に事務所を持つ、小さな、とても小さな出版社です。島田潤一郎さんという方が、御一人で立ち上げられ、ヘンリー・スコット・ホランド、バーナード・マラマッド、上林暁、をはじめ、素晴らしい小説を、数は少ないながら、主にすでになかなか入手が難しい貴重な絶版本を、主に刊行しています。

その島田さんがどのような経緯で夏葉社を立ち上げられ、ひとり出版社という生き方に向き合ってきたのか、そのことが書かれた本が、こちらです。

50社の会社から断られ、ひとり出版社を企業されて、悪戦苦闘されてきた歩みが、記されています。

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夏葉社というひとり出版社

夏葉社にはちょっとした個人的な思い出があります。他愛のないものです。日暮里の谷中銀座商店街は、東京在住じゃない方も知っているというくらい、外国人の観光客も訪れるレトロでモダンな商店街なんですが、ぼくが今住んでいるところからほどよい距離にあります。

少し歩くと、台東区から文京区に入り、文京区は森鴎外記念館をはじめ、その千駄木の辺りは、あるいは漱石がよく散歩した坂道があったりとか、文芸にとても縁のある下町です。その文京区の図書館に、ぼくはずいぶんお世話になっています。図書館に行く途中で、谷中銀座商店街も通るわけです。

古書 信天翁(あほうどり)

その一角に、小さな古書店があります。「夕焼け段々」といわれる、商店街入り口の坂道があるのですが、その雑居ビル2Fの一室にあるのが、古書信天翁(あほうどり)です。古本好きのぼくはときどき立ち寄ります。あるとき、ぼくの大好きなアメリカの作家であるバーナード・マラマッドの『レンブラントの帽子』が棚に飾られてあるのを見つけて、ぼくはすぐ手にとったんです。

その著作がちょっと様子がおかしかったんですよ。古本にしては、とても綺麗でしたし、なにより装丁が美しい。なにより「変だな」と思ったのは、いわゆる単行本サイズより、少し小さい感じもしたうえ、その薄さであって、ぼくは以前に集英社から刊行されていたマラマッドの『レンブラントの帽子』は読んでいたんです。それは八篇入りの短編集のはずなのに、三篇しか入っていませんでした。

図書館で借りて読んでいましたけれども、是非自分で所持したいと思ったので、ぼくは買おうと思い、レジに向かったのですが、これは古本ではない、といわれたんですね。

「……あのっ、すいません、これ、『レンブラントの帽子』ですよね?」とぼくはビニールに包装されたその本をレジに持っていきました。

「そうです」と本の表紙を確認しながら、店員の女性がいう。

値段が書いてありませんでした。

「いくらですか?」

聞いたら、ページ数の少ない本にしては、そこそこな値段でした。

「えっ、新刊なんですか?」

「はい、その上に並んでいるものに限っては、すべて新刊になっています」

いつのまに『レンブラントの帽子』が新刊で出たんだろう? ぼくは本を棚に返して、買うのを諦めましたた。値段のこともあったんですけれど、ぼくは八篇入った『レンブラントの帽子』が欲しかったんです。

その新装版の『レンブラントの帽子』こそが、夏葉社から出版されたもので、夏葉社の創業第一弾の出版本でした。なぜ以前の八篇収録ではなく、三篇なのか等、その経緯は、先にあげた島田さんの著書に書いてあります。実は、マラマッドの著作は夏葉社創業の第二弾として企画された著書だったわけですが、実質的にはこれが夏葉社の第一弾の書籍になって、評判になったわけですから、島田さんにとっても思い出深い本だったのは間違いないでしょう。

買っておけばよかったかな……とあとでぼくは後悔もしたんですけれど、購買者にとって、その本にお金を払うかどうかは、理由は様々で、少なくともそのときぼくが求めていたのはマラマッドの著作であって、夏葉社の本ではなかったわけで。これがぼくと夏葉社との最初の出会いですね。

( ――尾崎一雄、尾崎士郎、上林暁、野呂邦暢、三島由紀夫…。文学者たちに愛された、東京大森の古本屋「山王書房」と、その店主。幻の名著、32年ぶりの復刊。文学好きにはたまらない本ですよ、これは。ピースの又吉さんもこの著作が大好きみたいです。上林暁の著書も夏葉社は二冊出されている。ぼくは野呂邦暢という作家がすごく好きで、多くの方は知らないでしょうが……)

夏葉社が創業したのは、2009年。資金数百万円からはじまった、島田さんがおひとりではじめられたそのひとり出版社が、これまで順風満帆だったというわけではもちろんなかったことは著書を読めばわかります。ただ根強いマニアックなファンがいます。企業への書類選考で50社の内定を落ちつづけた島田さんは、「だったら自分で企業しよう、どうせなら好きな本を出す出版社を作ろう」とひとりで出版社をはじめたわけです。

今、ひとり出版社を立ち上げる企業家が増えている、といいます。ぼくはこのほかにも何冊かの、ひとり出版社を起業されている方を特集した本を読みました。

「出版社? それもそんなマニアックな本を出していて、今本がどんどん売れなくなっている時代なのに、時代錯誤もいいとこじゃない?」と首をひねる人も多いかも、とぼくも確かに思いますけれども、実は意外なねじれ現象が出版業界を今襲っているといってもよいです。

たとえば現在老舗の書店も潰れていく時代ですし、商店街の小さな本屋さんなどは、空前の灯です。この島田さんの著作にも、その惨たらしい現実がありのままに書いてあります。営業のために、Googleマップで調べて、地方の書店に足を向けると、行っても行ってもどの書店もシャッターを下ろしていて、見当たらない、と。今書店といえば、ジュンク堂や八重洲ブックセンターや紀伊国屋書店などの大型書店のみ。しかし、そのような書店でも経営が苦しくなっているのも、誰もが知るところでしょう。バブル時代には飛ぶ鳥を落とす勢いだった、最先端の書店であった、あの西武の池袋リブロ店が閉店しました。しかし、その「淘汰現象」が、ある「隙間」を生まれさせて、ニッチな産業を生みだしているわけです。こういうところがまさしく経済が生き物だな、と思う所以ですね。

たとえばいいかたが妙になってしまいますが、小さな書店が淘汰されることで、大型書店が、それまでは流通させることのできなかったマニアックな本を入手し、陳列することができるような珍現象が現在起こっています。大型書店もニッチやロングテールに注目する時代に入ってきたのです。

いわゆる「不況」というのは、なにも弱小の企業から食いつぶされる簡単な話ではありません。やがてその波が大きくなると、大手もやられていく。すると、隙間が生まれます。島田さんが書かれた『あしたから出版社』を読むと、まさしくそのような「現代経済の動向」が、生き方そのものをなぞっているかのようです。「夏葉社」という小出版社は、そんな中で立ち上げられたものだ、というまさに時代の申し子に見えるのです。

21世紀に入って日本にはっきりと起こっているのは、従来の「中間層」が瓦解していることです。いわゆるよくいわれる「勝ち組」「負け組」の二極化ですが、言い方は悪いかもしれないですけれども、その「底辺層」に自ら潜りこんでしまえば、ポジションはある、ということが、最近わかってきました。マスが破壊されることで、ニッチなものに注目が集まってくる。商店街でも、プラモデル屋や有機栽培を扱う八百屋やマッサージ店や、そして古書店は意外にもしぶとくシャッターを閉ざさず、生き残っていたりするわけです。

夏葉社の本を一度手にとってみてはどうでしょうか?

これぞ、本だ、という感慨が、あなたを感動させることは間違いないです。

本というのは、なにも中身に書かれてあることのみではなく、そのカバーデザインから、製本、自分の書棚に収まったときの景観も含めて、それは本なのです。そしてそれがあなたの人生のひとつの役割りを必ず果たすことでしょう。

ただし、ここではっきりしなければならないことがあります。ひとり出版社が流行している、といいましたが、彼らのパイは少ない、ということです。実際夏葉社の出版の実売数はどのくらいなのか。『レンブラントの帽子』は初版3000部でしたが、最初に書店に注文で引き取られたのは、700部でした。企業当時の島田さんの給与は八万円程度だったと書かれてあります。それでも島田さんは出版社を立ち上げ、良質な本を出しつづけてきました。理由は、彼が本を愛しているからでしょう。

夏葉社

結局、この著作を読んで、ぼくがとても考えさせられたのは、大手と個人という二項対立という相変わらずの社会構造でもなく、クリエイティヴィティに関するこれからの時代の新しい動きについてでもありません。

島田さんが書いたこの著作には、大事な友達のふたりの死が最初に描かれています。しかし、会社員としての生き方も順風満帆ではまったくないことが描かれている。企業に入っても、社会から零れ落ちる生き方も、どちらも絶望のようのです。

これはまさしく21世紀的な現実的な事態であり、ますますどうこれからの時代をサヴァイヴするのか、迫られると思っています。島田さんはご結婚されて、子供も儲けられたようですが、となると、これからは子供が育っていくにつれ、好きな本だけを出す、と言うふうにはやっていけなくなり、企業家としての第二の壁がやってくるかもしれません。

もちろん夏葉社は企業して成功した「上澄み」にいる会社であって、その企業に入るか、自ら企業家となるか、二者択一とはどちらをとるかではなく、どちらをとったにしても、生き残るのは至難の技です。

島田さんが成功したのは、彼を応援する人たちがいたからですが、なぜでしょうか? この著作を読むと、親から借金した甘えた人間が好きなことを仕事にした経緯が書かれているように一見見えますけれど、そうではないことがわかります。

彼が与えたからです。

実際夏葉社の作る本はどれも素晴らしいですから。知らなかった、という方は、ただ検索するのじゃなく、是非実際に手にとってみて欲しいです。大手が出す本とはまったくその本の読者への与えられ方が違うことがわかります。

最後まで読んでいただき、まことにありがとうございました。

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