岡崎京子の『リバーズ・エッジ』を読む。退廃の先にあるものは?

岡崎京子

1990年代半ば頃から、ひとつの潮流、気配といったものが、この国を襲った、とぼくは思っています。1992年にバブル景気が崩壊して、いつ終わるかもわからないデフレ経済に突入した頃です。馬鹿騒ぎのお祭りの余韻の後にやってきたのは、まさに平成という名の終わりのない平らな現実でした。そのとき日本国民がどうなったのか? ぼくらの胸に浸水された、その感覚は「退廃」だと思います。

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時代と呼応した唯一無二の漫画家

よく「退廃芸術」などと、ヨーロッパなどではいわれますが、これはブルジョアから発せられた嗜好です。典型的なのは、19世紀末のオーストリアなどです。退屈と暇を持て余した金持ちたちが、しかし、自分たちの未来が長くはつづかないことを知って、内面を抉りだすような刹那的な快楽に溺れていきました。

豊かさが沸点を超えるとき、人々を襲うこの現象は、過剰な消費活動を求めながら、暗い未来像からもたらされるアンニュイな気怠さを帯びます。日本の1990年代とは、まさに、そのような時代だったと思います。それを象徴した作品があったとしたら、そのひとつが岡崎京子の『リバーズ・エッジ』だったといえます。今回は岡崎京子の代表作のひとつである、90年代の傑作『リバーズ・エッジ』をレビューしていきたいと思います。

岡崎京子という現象

岡崎京子(1963年12月13日 – )のデビューは1983年です。日本のバブル景気は85年~92年ですから、それ以前にあたります。周知のように、1996年に自動車事故に遭い、以降彼女は漫画家としてのキャリアが頓挫した形になっています。

少女漫画の歴史を紐解くと、80年代というのは少女漫画の黄金期といわれた時代でした。それ以前から活躍していた萩尾望都(1949年5月12日 – )や竹宮恵子(1950年2月13日 – )、あるいは大島弓子(1947年8月31日 – )らが一気に表舞台に現れてきます。萩尾望都と竹宮恵子の関係性は、非常に面白いものがあり、少女漫画史を語る上では欠かせないものなので、いづれかの機会にレビューしたいと思っています。

両者は共に同じアパートに住んでおり、互いに漫画の技術を切磋琢磨していましたが、先に売れっ子になってしまった萩尾に対して、竹宮は少女漫画の世界に、それ以上の確信的な転換を迎える表現方法を開拓しました。1980年には『LaLa』において、山岸涼子(1947年9月24日 – )の代表作である『日出処の天子』が連載されはじめます。まさに少女漫画が変った時代でした。

遅れてきた少女漫画家の岡崎京子

先にいったように、岡崎京子は80年代から活躍していた漫画家です。内田春菊(1959年8月7日 – )、桜沢エリカ(1963年7月8日 – )などと同列に語られました。当時のアシスタントに、後に『働きマン』など数々のヒット作を飛ばす安野モヨコ(1971年3月26日 – )がいます。

注目すべきなのは、彼女たちの漫画が、先に言及した萩尾望都らの漫画とは、まったく異質なものであった、ということです。ここでまた少女漫画の歴史が大きく動いたわけです。

岡崎らの作品の最大の特徴性は、ストーリーではなく、人物像に大きく焦点があてられたところだと、ぼくは思っています。それまで男性性に抑圧されていた女性的な内面を曝け出すような作品が、真っ向から描きはじめられていきます。女性は男性に囲われる存在ではなく、自身の考えがあり、意見があり、なにより望むべくライフスタイルがある、と。

もっとも重要なのは、性のモチーフ、です。岡崎京子も、内田春菊も、桜沢エリカも、皆独自の女性観の元に、その作品をそれぞれに描きました。その根底にあるのは、女性から発せられる性的衝動が大きくあったといえます。

初期の岡崎京子と後期の岡崎京子

ぼくは岡崎京子の発表された作品はぜんぶ読んでいますが、いかにもバブル景気の中で、その豊かさを満喫する青春像を描いた初期岡崎の作品にも、すでに「退廃性」が、十二分に潜まれていたと思っています。

彼女の代表作のひとつに1989年に発表された『Pink』がありますけれど、これは岡崎京子の名を決定づけた作品です。あとがきで著者自身がフランスのヌーヴェル・ヴァーグの旗手ジャン・リュック=ゴダールの映画から、こう言葉を引用をしています。

すべての仕事は売春である

退屈な東京で本当の愛を求めて、豊かな資本主義が象徴するショッピングやセックスに耽る主人公は、時代を反映しながら、その豊かさであることの鬱屈さをシニカルに抱えて、生きていきます。彼女は鰐を飼っているんですが、これは多くの方が指摘するように、作家村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』(1980)からの引用です。その作品もまた、やはり豊饒化した日本の戦後の退廃が描かれた物語でした。

岡崎京子という漫画家が新しかったのは、女性のセックス描写を赤裸々に描くという点にあっただけではなく、それが資本主義と結びつく点です。これを理解するのと、そうでないのとでは、岡崎作品をどう読むか、その価値基準が大きく異なってしまうので、この文言に首を傾げる方は、これ以降のぼくのレビューを読んでも、ぜんぜんおもしろくないと思います。

ぼくの岡崎作品に対する中心的観点は、そこなんです。

岡崎作品に生きる人物たちは、同じ時代を生きたぼくたちの退廃と結びついており、それは快楽やセックスと結びついており、そしてそれは死に結びついています。

岡崎京子作品の変化

岡崎京子

出典:『リバーズ・エッジ』岡崎京子

優れたアーティストはその長い活動期間で、スタイルを変えていくのは普通です。画家も、映画監督も、小説家もそうです。岡崎京子も例外ではありませんでした。

彼女は作風をだんだんと変化させていきます。いったいどこから具体的に変わったのか、というのは、いろいろ意見があると思いますが、個人的には、ぼくは彼女の作品は、初期の頃から退廃が満ちていると感じているので、だんだんと変わっていった、という印象です。

日本の1980年代、1990年代の歴史を振り返ってみれば、その変遷が自ずと明らかです。彼女ほど時代を象徴し、そこに翻弄される人物像を描いた漫画家はいないでしょう。もうひとつ特徴をいいいます。岡崎作品が舞台にしているのは、ほとんどが東京です。

『リバーズ・エッジ』と『ヘルター・スケルター』の2代傑作

後期岡崎京子には代表作といわれる作品が二つあって、ひとつは1994年の『リバーズ・エッジ』、もうひとつは2003年の『ヘルター・スケルター』です。『ヘルター・スケルター』の連載は1995年なので、『リバーズ・エッジ』のすぐ後に取り掛かった作品なのですが、事故のために、長い時を経て未完のまま刊行されることになりました。2012年に沢尻エリカ主演で実写映画化されましたので、知っている方も多いと思います。

整形して美しさをひたすら求めていくモデルのりりこの孤独な心情と、しかし、どうしても向上していきたい野心の中であがきもがいていく、その壊れ方を描いた、岡崎京子の渾身の一作です。

彼女の漫画経歴の中でも最も力を注いだものじゃないのか、とも思える作品で、確かに彼女の骨頂だと思われる傑作ですけれども、この未完の作品がさらにどう展開していくものであったのか、現段階においては想像するしかありません。

『リバーズ・エッジ』は退廃を超えて、緩やかな死が描かれていきます。社会学者の宮台真司氏がいったような、「終わりなき日常」を生きる、まさに90年代の青春群像が表現された物語です。

※ ちなみに『リバーズ・エッジ』も、行定勲監督、二階堂ふみ、吉沢亮主演で、2018年に映画化が公開予定です(現2017.9月現在)。

『リバーズ・エッジ』にこめられたもの

『リバーズ・エッジ』を論じる前に、いっておかなければならないことがありまして、1993年から94年にかけて雑誌『CUTIE』に連載されたこの『リバーズ・エッジ』には、実は元ネタがあるんです。1986年に、キアヌ・リーブス、デニス・ホッパーらが主演で上映された『リバース・エッジ』という映画です。タイトルが微妙に違っているのですが笑、普通にレンタルDVD屋に行けばあると思いますので、未見の方は、ぜひ観てください。意外と、悪くない映画なんです。

ただ、なぜこの映画が彼女に作品を構想させるほどインスパイアしたのか、個人的にはよくわかりません。驚かずにいられないのは、それまでの岡崎作品のように、ちょっと引用した、というのではなく、かなりのディテールまでこの映画から借用しているんです。

このカリフォルニア州の田舎町で、コカインの売人や、殺人事件や、遺体処理など、ありていの素材がてんこもりな作品から、岡崎はなにを摘み取ろうとしたのでしょうか? とにかく、『リバーズ・エッジ』は、この作品を下敷きにして描かれました。

『リバーズ・エッジ』のストーリー

『リバーズ・エッジ』の主要人物は、若草ハルナと山田一郎という高校生の男女です。ハルナには観音崎という同級生のボーイフレンドがいます。山田くんには田島カンナというガールフレンドがいます。けれども、どちらもぎくしゃくしてうまくいってはいないようです。そんなときハルナと山田くんが、学校の屋上で出会います。この漫画はこのふたりが次第に、恋愛、とは違った意味合いで「共鳴」していくところが軸となっています。

この作品も、やはり他の岡崎作品と同様、その感覚が時代の呼吸のようなものとぴたりと寄り添っているように見えることが括目すべき点です。また、この作品に登場する人物たちすべてが、バブル崩壊後の90年代という、その最も日本という国が「退廃」を露呈した、その時代の申し子たちなのは間違いないということです。

小山ルミはハルナの女友達なんですが、観音崎と親しくなっていきます。吉川こずえという、もうひとり重要な人物も登場します。こずえはモデルで、学校の誰もが羨ましく思う容姿に恵まれているはずなんですが、実は内面には悲惨な地獄を抱えている人物として描かれています。

『リバーズ・エッジ』の最初で、衝撃的な展開が訪れます。彼らはひとつの死と出会うのですが、山田くんが偶然河原で見つけた浮浪者の白骨死体です。しかし、恐れおののくのはハルナだけで、山田くんも、こずえも、それに「慰安」を覚えます。やがて彼らはすれ違い、傷つけ合って、事件が起こります。それは一言でいえば、愛のもつれ、といえますが、ここにあるのは絶対的な孤独というようなものです。この作品の最も印象的な場面は、最終章前のところで引用されるウィリアム・ギブソンの、二ページ見開きの言葉でしょう。すべて記します。

この街は
悪疫のときにあって
僕らの短い永遠を知っていた

僕らの短い永遠

僕らの愛

僕らの愛は知っていた
街場レヴェルの
のっぺりした壁を

僕らの愛は知っていた
沈黙の周波数を

僕らの愛は知っていた
平坦な戦場を

僕らは現場担当者になった
格子を
解読しようとした

相転移して新たな
配置になるために

深い亀裂をパトロールするために

流れをマップするために

落ち葉を見るがいい
濡れた噴水を
めぐること

平坦な戦場で
僕らが生き延びること

出典:THE BELOVED / ウィリアム・ギブソン

この漫画は、死、を中心に描かれている、といいました。彼らはそれを眼差しつづけるのですが、彼らは永遠に孤独です。孤独だからこそ死を見つけるし、死を発見するからこそ孤独が露呈してくるといってよいです。事件は解決しません。確かに存在するのは、その絶対的な死、だけです。それだけがリアリティーがあるものです。

「平坦な戦場で僕らが生き延びた」とき、果たしてそこになにがあるのか?

この作品の結末が仄めかしているように、ハルナと山田くんが「交感」しているのがわかりますが、これはいわゆる愛とは違ったものです。山田くんは同性愛者なのです。彼らは、死、が介在して、初めて互いのコミュニケーションを成立させますし、あらゆるものたちの傷や痛みが発生した中でしか、それを感じ取ることができません。その消費しつづけるしかない平坦な日常生活の中で、それでも互いの理解を深めようとすること。それが、この『リバーズ・エッジ』に描かれたテーマだと、ぼくは思います。

『リバーズ・エッジ』に対する世間の評価

有名な作品ですし、岡崎京子の代表作ですが、『リバーズ・エッジ』はあまり好きではない、という岡崎ファンも、意外と少なくありません。その暗い世界観と、なにかはっきりしないテーマのため、というより、岡崎京子がこの漫画で、明らかにそれまでの作風から変化したことが影響かもしれません。

難解なものを描こうとしている、というふうに岡崎京子を、この作品で解釈する人もいましたし、この作品によって、彼女を単なる少女漫画家ではなく、文学的なアーティストであると評論家たちにも呼ばれるようになりました。

資本主義の豊かさの中で、ひたすら自己の幸福を追求する女性像を描いてきた岡崎京子は、バブル経済が崩壊したその後見たのは、死、でした。『リバーズ・エッジ』が残酷なのは、物語が終わっても、そこに事件に決着がなにもつかないことです。この作品は従来のストーリーテーリングにおけるハッピーエンドはおろか、「調和」すら拒んでいます。

祭りは終わった。次に、待っているものは、なにか?

誰もがいつかは必ず死にます。ぼくたちは、そのいつか訪れる「終わり」を見つめながら、不条理にも、「終わり」などどこにもないことを知ってしまっています。この苦しみにもいつか終わりが訪れるのだ、と希望を馳せながらも、このいつまでも平坦につづいていく戦場を、ぼくらは日々生き抜いていくしか生きる道は残されてはいません。

生きつづけろ。君の背後にはいつも死が忍び寄っている。

『リバーズ・エッジ』を読み直すたびに、ぼくが感じるのはそういう堂々巡りに自問です。

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